2016年7月15日(八段語録2840)
渇望(11)

 ある程度、組織が形成されてくると、諸問題が起こるのです。どんな選挙でも、百パーセント、その人を支持するというものではないのです。もちろん、理想は富士山のような、山に例えられるのです。山頂の火口付近が頂上であり、中心であるとするならば、その火口付近を支える、九合目のレベルの高い高弟がいなければならないのです。また同じように、高弟を支える、指導者が八合目を形成していかなければならないという事です。その指導者を支える道場生が末広がりに広がって、富士山のすそ野を作っていくようなものです。
宮城県本部として活動して、二十年の期間が過ぎました。初めに創設したのは、安斎師範でした。安斎道場の仙台支部として出発したのです。私はというならば、現地採用の指導員でした。それもボランティアで始めたわけです。安斎師範は、一週間に一度、福島から来仙してくれました。私は、道場生を集めるという、新規の闘いをさせてもらったのです。この体制で運営されていったならば、何の問題も無かったのです。
 さて、いつしか、多くの道場生が集うようになりました。百人の道場生が集うようになると、この道場を貸しているオーナーが、現場に口を出すようになったのです。いつの間にか、安斎師範を押しのけて、自分が師範という立場に立っていたのです。次第に安斎師範と同じ師範になったのです。現場を指導していた私は、戸惑いながら、新たな師範の為に、師範代の立場で、道場の発展に努めるようにしていました。もちろん、ボランティア活動の一環でした。もともと、極真空手を知らない方でしたので、私が極真精神で指導している内容を、理解しようとはしなくなったのです。その師範からの指導は、常識を疑うような事ばかりでした。私の指導理念はもう、死骸になってしまったのです。そして、極真精神とは全く違った概念を持ってきて、道場生を好きなように、動かし始めたのです。極真の魂が流れないのです。
 それでも、私の場合、師範代ですので、支えるという意味では、私の任された分野に対しては、責任を持つようにしたのです。次第に、四百人程の道場生が集うようになりました。四年近くサポートしてきたのですが、自分の子息が指導するという事で、私は、大きな組織になった道場を譲って、ゼロから宮城野支部の認可を頂きました。もちろん、これだけ多くの道場生が集うようになったのだから、オーナーで、運営できるという自負心から許可したという事でしょう。
その時、会場として選択したのが、榴岡軽体育館でした。仙台駅から一駅でとても便利という事が要因でした。そこから再びゼロから出発という事でした。そのうちに、極真の伝統である生命の根っこである手塚会長を迎えるようになったのです。極真精神ではなく違った概念では、極真空手をしようにもできなかったという事です。会長を迎えることによって、大山総裁を頂点とする手塚会長、そして宮城県本部という流れが、再び元通りになったのです。その時実感したことは、渋柿から再び元の甘柿に接ぎ木されたような気がしたのです。つまり本来の極真の生命の血液が流れたように感じたのです。
 極真の修行を続けて、ちょっと違った道に行った場合には、違和感なのです。この時は、師範との間に、異物が混入したという事で、極真の伝統が切れたのです。このような事も、実際の起こりうることなのだという教訓を得たのでした。