2016年7月7日(八段語録2832)
渇望(3)

 通常の責任者会議が五日に持たれて、反省すべき事を重点的に対応していくという事でした。責任があるという事は、大変な事です。あらゆる活動を総括し、新しい判断に迫られるわけです。この極真会館宮城県本部に、全身全霊どれだけ投入するかが、大きな分岐点になってきます。それでしか発展は、無いのです。身もだえする中に、一点の光明を得て、少しずつ突き進んでいく事になります。かつて私は、組織の軍曹のようでした。そして判断を正しくして行動する事に、重点を置いたものです。しかし、一人で組織して率いる人材は、百二十名程であると気づくのです。全て一人で面倒みてきました。もちろん少ない人数の中に指導者は誰であるかと、探したものです。それでも、指導者を立てようとするよりは、一人判断するという道を、選択してきたのです。開拓のその時は許されても、今はそのような勝手な判断をするならば、組織は目茶目茶になってしまいます。当たり前の事です。しかし、私は気が付くことができましたが、多くの師範は、町工場のおじさんから抜けきらずにいるようなのです。
 ある団体の師範はが、多くの投資を得て、事業を展開しているのですが、全ての決定が、その師範という事なのです。一人では、現状を把握する事は、不可能になってしまうかもしれないのです。私の場合、はっきりしているのです。「持ってけ泥棒」なのです。人材も経済も権力も、全て任せているのです。不安があるかというならば、全く無いのです。毎年大きな金額を総本部に送ってきました。その事も自分で行ってきましたが、今はスタッフが判断するのです。現状の宮城県本部の状態を、財務面からも冷静に判断しているという事です。ところで、スタッフを信頼することなく、決定の全てを師範がするという事になると、穴が空いてしまうという事です。そのような観点から、財政面から人材面に至るまで、現場の決定が私の決定にしているのです。つまり、現場に全ての権限を委譲しているのです。私は結果に責任を持つという事です。そのような芸当が出来ているという事です。
 ところで、私は、極真会館宮城県本部の躍動を確信しているのです。何故ならば、スタッフの意気込みが違うのです。スタッフの中に、本来の責任意識があるのです。そして、堂々と立っているという事です。その気持ちは、私の心に収めることができるのです。長年の付き合いですから、肌身で感じる訳です。私より、厳しく現場を把握し、叱咤激励しているのです。私がメッセージを託す前に、成すべき事を実践し、願われる前に行動しているという事です。もうすでに、教え悟らせようとする術は、何ら必要が無いのです。それほどまでに、二十年に及ぶ師弟関係は、成熟しているという事です。道場生の存在価値を高め、決して、どんな大会に出場しようが、個人プレイにならないように諫めていることもあるのです。そのような意味では、新しい気持ちで、極真会館宮城県本部に向き合う事ができ、これからの発展を見据えているという事です。このような時間も、直接的な気持ちを投入して、対応していることを知るのです。
 そのような意味では、私にすり寄って、何か下心を持って対処するスタッフはいないという事です。駄目なものは駄目、はっきり進言できるスタッフなのです。