2016年7月6日(八段語録2831)
渇望(2)

 このような切り口は、どうなのかと思うのですが、一応表現してみました。還暦までの歳月は、あらゆることを学び取って、準備してきたということにするのです。そして、自らの判断で、より成果を表せる年代を、還暦以降と捉えるのです。そうすると、やっと人生の種蒔きを始めた思いになるのです。もちろん、一生の季節をこのように、極端に捉えるという事は、ちょっと無理があるのかもしれません。そう思えるという気持ちの原点は、今が最も、充実しているように思えるからなのです。道場の礎を作って、新しい道場生に投入して、教育、組織の充実と、何をやっても、やれるという気持ちになります。自分ができるというのではなく、本部スタッフが素晴らしい動きをしてくれているのです。それは、まさに還暦以前の私の遅々たる歩みが、実っていると思っていいのです。そうすると試行錯誤した、還暦までの歩みは、冬の時代のように、理想を温めて、じっと辛抱していたように思えるのです。それが、一挙に種蒔きに一生懸命な自分を見るのです。一生の季節は、人それぞれでしょうが、まだ春を迎えたばかりと捉えるのは、決して間違いではないように思うのです。
 さて、時は近づいているという気持ちです。時に対して私が分かっているかというならば、手を挙げたわけでもないので、分かりません。このような発想が心配になり、疑うような気持にもなります。時は時なりに過ぎてしまいますが、昔のそのままの気持ちでは、何にもならないという事も理解しているのです。それでも春になれば、種を蒔くときとして、蒔けば芽も出ます。夏になればその芽は育っていき、成長もするのです。秋になれば、実を結んで冬になる直前に、収穫期がある事を、自然は教えてくれます。それで、こじつけですが、人は人なりに、準備のままではいけないのです。同じことが言えるという事です。春になれば、種を蒔くときとして、種を蒔けば芽が出るでしょうし、夏になれば芽が育つのです。秋になれば、身を結んで、取り入れる収穫期があるという事です。このような自然現象の法則にしたがって、人が、全生涯の過程を通じて経過していくような事を見ると、今は、準備が整って、春の季節に入っていると思うようにするのです。かなりのこじつけですが。
 ところで、今種を蒔くという事が良いのではなく、その種に、もうすでに、葉や茎そして根っこがもうすでに、備わっているという事です。内包してきた価値が、人生をかけて総合すると、間違いなく結実するという事です。人生において、そのような時があるという事を感じてならないのです。私の一生を通じて、極真の神髄を知った過程において、どの時期がどのようなのかを、悟るようにすべきであると思うのです。まだまだ人生の収穫とは、離れているという事です。その事から遡って考えれば、今種を蒔いているという気持ちになるのです。その為にも、しっかかりと、私の人格を磨くという意味で、正しい生活を実践していきたいものです。何よりも一日の生活を通じた、闘いに負けないようにという事です。もちろん、一か月の生活にも言えることです。
 今は収穫に向かって、勇ましく大胆に戦い抜き、万事の勝利を手にしていきたいという事です。それにしても、若き日の私の人生は、落ち武者のようにさ迷い歩きながら、天狼の目を持って、食らいついていったものでした。今は丸くなりすぎでしょうか。