2016年7月3日(八段語録2828)
熱望(24)

 極真会館宮城県本部で、講演会を開きました。日曜日という事もあって、道場を解放するという事にしました。道場を解放するという事は、その講演会に私は、胸襟を開いて受け入れるという事です。信頼できる講師でありましたので、午後から二十人近い受講生と共に参加しました。この講師は、私がイギリス・イスラエルに旅行した時の先輩で、よく現地の案内をしてくれました。どのような事に関しても、好奇心の多い私だけに、日本を取り巻く、国際情勢の話は、参考になりました。そんなことより、私の生き方を考えていたのでした。天に恥じない行き方を目指しているので、その方法手段としての極真の道は、適った歩みという事にしているのです。天に恥じない、生き方をするという事ですが、私がどのように努力するかという道筋を示してくれるような、修行スタイルを見出せないでいた時に、出会った極真空手の道という事になりました。生活を通じて、より人様に迷惑をかけない歩みをするには、どのように、すべきであるかという事を、悩みぬいた末、たどり着いた結論という事になりました。講演とは別な発想で臨んでいたという事です。風邪も引いていましたから。
 さて、極真空手道に打ち込む毎日の中で、自分自身を心配しながら、一日一日を精一杯に生きるという事を実践するのです。天と共に生きることができず、また世間と共に生きることに、支障がある自分である事に気づくのです。このような私の心を生活の中に現していくと、善悪が自身の中で、判別されてしまう事に気が付くのです。実に閻魔大王は、私の心にあるという事でしょう。知性と学歴がどうであろうと、納得しない人生を歩もうとする自分に身もだえする事は、自認せざるを得ないのです。手塚会長に従って、八段の帯を授けて頂きましたが、理想だけは素晴らしいし、夢だけが全体を覆うのです。まだまだどれ程の生きがいある人生を歩んでいるかという事になると疑問符がついてしまいます。今でも、色々な人の講演の話を聞くのですが、どれほど人間らしい姿になっているかという事を見つめざるを得ないのです。不足である事を評価して、反省しているような時間となりました。
 ところで、世間で個人とする生活が、自分一人の為であるならば、寂しさを感じえないようになると思うのです。歳を取る寂しさは、ひしひしと付きまといます。個人の為だけに生きていたとするならば、卒倒しそうな気持ちにもなります。極真会館の道場生と共に、生涯を歩むという事を前提にすると、始まりと共に終わりを結ぶことができるというものです。そのような気持ちを大切にできれば、無限な力が体内から湧き出でて、闘争本能に火をつけるような気がします。極真会館の副会長として、どのように行かなければならならないかという事は、既に決定されているという事を、分からなければならないという事でしょう。
 講演を聞きながら、関係が無いかもしれませんが、国際情勢よりも、襟を正して、この道を歩む、自分になるようにという真摯な気持ちになったのでした。この極真会館宮城県本部が、私の土台であり、天からの贈り物であるように思えたのでした。この事を忘却することなく、言葉で言い尽くすことができない立場に感謝して、また前進すべきであるという事でしょう。講演内容とは全く別な気持ちで、講演に参加していました。まだまだ、極真会館宮城県本部の為に、やる事は山ほどあるはずです。誰からも評価を受けた時に、初めて、充実した気持ちになるのであろうと、残りの人生を驀進するのです。