2016年7月2日(八段語録2827)
熱望(23)

 指導者の阿部先生が、ジパングの大会を前にして、緊張している様子を「fb」に載せていました。本当に自らを、最前線に身を置くという事は大切な事です。それも、学校の教諭としての、社会的責任を持っているからなのです。大きな小学校に移動になって、多くのストレスを抱えながら、自ら自身が置かれた立場を、自ら見極めていくという事の、原点を見出そうとしていると伺えるのです。どんな大会でも、孤独なものです。大会の試合に、闘うという事だけでなく、自分の置かれている全てを、見極めて臨むという事になる訳です。試合に臨む前に、「私」はこの大会に誰の故にここに来て、どのような結実を結ぶためにこの場に居るかという事を、はっきり悟らなければならないという事です。職場の環境がいかに大変でも、自らの置かれている立場を、完全に究明し、あらゆる関係を完全に決定づけ、これからの生き様を忘れることができないように、関連付けていかなければならないという事です。
 特に印象に残っていることは、阿部先生の挨拶の主張です。選手クラスであろうと、一般部であろうと、徹底すべきです。挨拶で人生が変わるのです。挨拶のできない道場生には、怒鳴り散らすべきです。世の中がいかに悪くても、世の中がいくら醜くても、挨拶をしっかりすれば、吹っ飛んでしまいます。挨拶を誰よりも、しっかりするとするならば、その人が結んだ関係は、世の中の何よりも大きいなものになり、何よりも貴いものになるという事を、意識しなければなりません。心からほとばしる挨拶は、自らの原動力になるし、挨拶を受けた先生は、しっかり指導しようと思うようになるのです。ただ稽古しているだけでは、魂が入りません。挨拶は、心で、そして体で相手を称賛し、相手がどれ程尊いかという事を感じることができる礼儀なのです。今、私自身を一つ一つ分析するにおいて、「私」の顔は誰の為に備えているかという事です。「私」の目は何を見て、「私」の耳は何に向かって傾けられ、「私」の口と鼻は何を味わい、何のにおいを額為にあり、「私」の手足は、どこの誰に奉仕するためにあるかという事を、考えなければならないという事です。その機転が挨拶なのです。
 ところで、極真の道に、一致することができるように指導することが、指導者の責任なのです。特に手塚グループでは、家族を大切にし、対話を十分に持って、自然を愛するというのが理念になっています。家族を大切にしなければならなかったにもかかわらず、家族を捨ててしまう世の中になってしまっています。それを改革して、最大に親を敬い、尊敬する道場生に、育てていかなければならないのが、指導者の役割です。その入り口が、挨拶の押忍という事です。道場生は手の荷物を横に置いて、しっかり十字を切って押忍と挨拶できるように指導してください。
 私達は、この地上に生きたとしても、百年以内の生活圏で生き、土に埋められる運命になっているのです。挨拶は、人生の生き方の指針にしなければならないでしょう。私が生まれながら暮らし、四肢五体を持って生活するのですから、挨拶の伝統だけは立てていきたいものです。挨拶がどれ程の価値がある者であるかという事を、道場生に徹底させなければなりません。特に新田での稽古の、挨拶の不備が目立ちます。よろしくお願いします。