2016年6月27日(八段語録2822)
熱望(19)

 「社会を明るくする運動」の配布物を、まとめて一つの袋に配布物として、作っていく作業の為に、保護観察所に出向くことになっていましたが、体調不良の為に、欠席にしました。立場を与えて頂いて、社会奉仕のための作業をさせて戴く事でしたが、肉体が思うように動かない事になってしまいました。公的奉仕活動の前に、不調な肉体ですから、何とも言えない不憫さを感じます。日々思う事は、日常生活だけに埋没することなく、自分自身の望みと志を意識して、地域社会の上に、「社会を明るくする」事の成就することができる術を、求めていくという事なのです。数多くの人達が、個人の事で精一杯の人生の歩みをしている時に、ちょっと前に進んで、世間の懐に入って、良くしていこうとする、公的精神を持つことができているという事です。気持ちとしては、なるべくよき環境を築いていこうとする、意識の表れであると思うのです。
 確かに自分一人の事も、思うようにままならないのに、世間の事を世話するという事は、奥がましいという事なのです。それでも、不幸な不憫な人達がいるとしたならば、見て見ぬ振りできない気持ちが、心をよぎってしまうからなのです。そのような自覚があるという事です。誰かが、世話をしなければ救われない、魂があるという事です。誰もが人間として相応しい生き方を、保障している国家であるので、道から外れた人達に関心を持つことができる人も、いていいのでしょう。そのような人達は、意外と少ないのです。それなら手を挙げて、奉仕活動に身を捧げようとする気持ちになるのです。その分野は、意外と選挙と違い、手を挙げないのです。私としては、それこそが、世間に顔向けすることのできる活動であると思うのです。私のような気持の人達が、バトンを継承するように引き継がれていくのであると思うのです。私が特別なのではなく、少数派であっても、時代時代にそのような人達が、社会改革を成し遂げてきたという事です。
 ところで、このような事を考えていくと、本来ならば、保護観察所に出向いで、奉仕の作業をしなければならないいのですが、今日は、どうにも身体が言う事を聞かないのです。実に悲しい気持ちになります。同僚の保護司の方から電話があって、まだ来場していない事に心を砕いてくれました。事情を話して、観察所に連絡していると報告すると、お大事にしてくださいと、温かい声を掛けてくださいました。もちろん、「社明フェスティバル」が仙台駅前で、7月1日に行われるわけですから、それまでに、体調を整えて、しっかり活動していきたいと思うのでした。荒廃を防いで、この世の中に明るさと取り戻すために、少しでも貢献することができればという思いになります。
 肉体が弱っていても、気持ちは、「社会を明るくする運動」の新しい方向性を見出して、私達が良かったと、意図する方向に、多くの人々を導くことを願う意識でした。人生の過去と現在と未来を連結させようとすると、過去は多くの人に世話になり、今現在は、なるべく為に生きようとするし、将来においては、奉仕活動をメインにしていこうという気持ちになるのです。元気になったら、もう少し、骨を折って、苦労の前に身体を屈めて、奉仕しようとする自分があれば、良い人生かなと思うのでした。