2016年6月18日(八段語録2813)
熱望(10)

 合宿審査の第一日目を迎えました。空が晴れ渡って、気温がウナギのぼりに、上がりました。グランディ21の体育館ではありますが、エアコンを入れて、冷やさなければならない程でした。極真ならではの緊張した雰囲気で開会式を迎えることができました。合宿審査会に参加するメンバーはスタッフを入れて、百二十名を超えるほどでした。かつては、二百名を超えるほどの参加者の時もありました。しかし、精度を高く、内容の濃いものにするという意気込みで、しっかりとした研修を行うという趣旨で、昨今は厳しい審査会が開かれるのです。会場は緊張した面持ちで、体育館全体が道場になっているのです。御父兄も、観客の一人一人も、誰一人として、スマートホーンをいじる人もなく、神聖な開会式になりました。その整えられた環境のもと、私が発した表現は、押忍の精神の在り方を話していました。基本は挨拶なのですが、それ以上の意味があるという事を真剣に話しました。頼まれごとに対する姿勢なのです。頼まれたら、間髪入れずに押忍と返事ができるかという事です。大概は、勉強があるから、ゲームをしているからと、現実にある事を言い訳にして断るのですが、押忍の精神は違うという話なのです。頼まれても、押忍として間髪入れずに受け入れるという事です。「頼まれごとは、試されごと」という意識なのです。このような姿勢が整えば、誰からも愛される人格を築いていけるという話をしました。この事は、昔の私の時代の押忍の精神だったのでした。
 かつての私は、稽古着を洗濯し、先輩を慰労しようと努力したものです。それだから、全てが押忍でした。そして、先輩の栄光にしようとしたのです。その時の心境ですが、自分を主張するという事がなかったのです。自分を中心として動きと、先輩たちの機嫌を損ねるようになるのです。全体を裏切るような行動になるわけです。つまり、押忍という精神は、先輩等、全体の前に自分を差し出すという事なのです。そして、どの様な頼まれごとに対しても、真摯に応えていくという事なのです。それが、「試されごと」という判断だったのです。もちろん、尊敬できる先輩には心から押忍として侍る事が出来ました。尊敬できない先輩に対しても、自分を分別するかのように、自らを正して押忍と表現して侍ったのでした。
 ところで、押忍と大きな声で返事をして、先輩に答えるという事は、実に気持ちが良かったのです。先輩の心が私に乗り移ってくるように思えたものです。先輩の欲求が、私によって満たされたという事になると、実に嬉しいものでした。そして、団体戦でも、個人戦でも、自分が出場していなくても、先輩以上に嬉しさを感じたものでした。それは、試合にも出ました。百戦不屈の精神で闘えたのも、先輩との絆が押忍でむすばれていたからであると思うのです。押忍で先輩を敬い仕えることができました。もちろん、家に帰れば、世俗の文化に染まってしまうのですが、押忍という一言で、武道の世界に入って、間違った思いから抜け出すことができたという事もありました。
 この押忍という習慣は、時間と空間を超越して、高い価値を掴むのに相応しい言葉であるという実感なのです。押忍という一つの概念が、あらゆる価値を引っ張って来てくれるような気がするのです。そのような挨拶をしながら、審査会を見守ったのでした。