2016年6月17日(八段語録2812)
熱望(9)

 人生を過ごしてきているうちに、振り返るまでもなく、極真が中心存在になっているのです。それが現実である、事実というよりは、ど真ん中に極真があって欲しいという願いなのです。今となっては、決して極真から離れたくないのです。人生を極真で全うしたいという事です。この極真には、様々な事が含まれるようになりました。振り返れば、空手だけではないのです。私の心と体に刻み込まれた人生、全てであるという事です。この道を求めているというよりは、何か極真の懐に、抱かれていると言った方が、正解かもしれないのです。日々稽古をすることで、生命が充満し、愛情あふれる喜びの人生を、送る事が出来たのです。極真ゆえに、貴重な体験もできたのです。人が誰も経験できないものでした。その真っただ中に飛び込んで行っての感想は、「良かった」という一言なのです。もちろん、真剣勝負でした。今では貴重な体験をさせて戴いたという気持ちになります。
 さて、振り返れば、もうすべてを、消し去る事は出来ないのです。今の一時も、その思い出に浸る事に、何の躊躇もないのです。それ故に、これからも極真の道を、誠実に人生を歩みたくなるという事です。極真という意識をするという事に順応して、身体と心であらゆることを体験することができました。何か本来的な自分を、感じることができたのも、極真のお陰なのです。確かに振り返れば、険しい道のりでした。悔しい事、辛い事、いてもたってもいられない事、様々ありました。失望が身を纏ったこともありました。すべてに対して、反省という言葉が似合う時期も、多くあったのです。それでも、そのような悲嘆に明け暮れた時でも、極真が身代わりになってくれたように思うのです。それだけに、極真に投入しても、満たされる自分がありました。要するに報いられているような、極真の道であったという事です。
 ところで、人生の日々は、心と体で感じるのでした。多くの人が生きている中、間違って出会ったのかもしれませんが、縁で極真に出会ったのです。というよりは、呼び出されたのかもしれないのです。恐れ多くも、この極真の正道を歩むことが叶った訳です。誇る何物も無かった私が、極真を看板として誇る事が出来たという事です。今私の願う事は、この極真の看板に、泥を塗ってはいけないという事です。「さすが極真」という修行者になろうとしてきたのでした。当然、極真をエンジョイしたのです。それ以上に極真を爆発させようとしたのでした。それだけに、極真が私の心の中心に根差しているのです。誇る内容は極真であり、例え行く道が険しくても、寂しい立場に立とうが、この道しかないという決意に消えていくのです。極真に人生を引き受けてもらったからには、終わりの日の闘いに倒れたとしても、また闘いに出ていこうとする勇気を貰っているのです。
 人生最後まで極真に捉えて貰って、全うする事しか考えていないのです。とにかく、残り少ない人生を差し出して、極真の光となる事が出来るようになりたいものです。何の誇りもないのですが、大きな恩恵を受けたことは間違いないのです。この年齢で、今も悟る事が多いのです。明日は、合宿審査会が始まります。あらゆる準備を周到に重ねて、迎えようとするのです。多くの弟子を育てさせていただいていることに感謝という事です。