2016年6月16日(八段語録2811)
熱望(8)

 自分自身の能力を最大に生かすことができる道に出会ったことに、心から感謝するのです。多くの人達は、「こう生きたい」と願いを持ったとしても、社会で活躍することのできる人は少数なのです。その少数に選ばれたかのように、極真の道を歩んでいるのですから、恵まれた、理想的人生と言って過言ではないのです。そして、この道を歩んでみれば、一切の妥協が無い道でした。理念と方向性が武道精神という、真理に適っているのです。この道との出会いは、奇跡という事に他ならないのです。神様がいるとするならば、「私を放っておかなかった」という事のように思えてならないのです。それでも、修行の道は失敗の連続でした。修行を続ければ続けるほど、駄目な自分が現れるのです。環境にこじつけたくないのですが、私が駄目であるという事を証明するだけでした。その自分を超越することができる道を探しながら、武道家としての血筋を、卑しめてはいけないという気持ちだったのでした。
 さて、極真会館に出会って、決意したことは、決して逃げないという事でした。極真空手をモノにしようとする、気持ちが大きかったのです。そうすれば、駄目な自分を超越することができると思ったのです。それは、この道を究めるという事が、世界を究める理念と真理と、地上最強の肉体を勝ち取る者であると、本気に思ったのです。極真空手を究めるという事に、大きな存在を持つと同時に、スーパースターになるような、錯覚さえしたものです。そして、最強である肉体を持つ、完璧性を表現しようとしたのでした。次第に稽古を積み上げてくると、完全な極真が、理解できるような立場になるようになったのです。そのような時期になると、隣を見れば妻という存在が生まれていました。外的な修行から、内面への修行へ夫婦として、歩むというレベルまで、引きあがる事が出来たのでした。
 ところで、夫婦という事で家庭を作るような年齢になると、個人の修行というよりは、どの様に、この精神を伝えるかという事に変化していったのです。つまり、極真空手の伝道師になったのでした。多くの場所で指導をして、伝えるようになりました。そのうちに、道場を開くようになったのです。今まで経験してきた技を、気持ちで伝えるのです。それは実に難しい事でした。「私を見習いなさい」と表現するのですが、なかなかそれを実践しようとする弟子が少なかったのです。多くの人を、こぼしてきたように思うのでした。とにかく、絆のような因縁を、結び付けるようにと願うので、人格面の成長を目指した事は言うまでもないのです。確かに、大海に石を投げるような気持でした。故郷仙台は、この上ない狭い環境に思えたのです。そして、その輪が広がるかというならば、そうでもないのです。どこかに留まっているのです。そのようなじれったいような気持ちを味わいながら、この道を進んできたのでした。
 故郷仙台に根を下ろしたのでしたが、小さい事に偏るようにも思えて、自分の全体的な価値を失ってしまうようでした。壁にぶち当たって、愚かな自分に見えたこともありました。そのたび事に、大きな理想を欽慕しながら、より大きな理想を仰ぎ見るような気持を抱いたものです。この人格がまだ、この故郷にある姿として現れておらず、人格が表現されないもどかしさを感じるだけでした。それだけに、真心を持って、至誠を尽くして、責任を完遂できるように願ったものでした。