2016年6月11日(八段語録2806)
熱望(3)

 今に満足することなく、高い目標を維持しようとするならば、決して傲慢にならないという事です。高く傲慢に留まるようになると、発展は考えられないのです。それだけに、いつもゼロスタートを心がけるようにするのです。結局そのような心構えにするには、謙遜・柔和でなければならないという事です。目標を高く持つという事は、何もないという、原点に立たなければ、今日の、出発さえ出来ないのです。それ故に、守られて一日を、過ごすことができたことに、感謝なのです。守ってくれるという表現の背後には、神仏の御加護があるという事です。考えて見るまでもなく、私の生命でさえ、私のものではないのです。知識であっても、与えられたもので、自分のものでは無かったのです。このように発想することができるという観念でさえ、自分から出発していないと、思ってしまうのです。いつの間にか、立場ができるようになり、地位や名誉が増し加わるようになると、謙遜な自分という存在を見失ってしまいがちなのです。
 さて、稽古の場合には、指導の先生が動ずれば、道場生も動じ、静寂になれば、またそのようにするのです。極真精神という観念は、まさに天倫に一致しているという事が、前提になるのです。天倫に対する無知が、罪悪の影が、私達と関係を結ぶという事です。そのような罪悪に陥らない為にも、極真精神を身に着けたいものです。というのも、自分を先頭に立てるのではなく、極真精神を前面に立て、自体の不足なる事を悟り、天倫の働きを感じて、恐れ多い気持ちを抱くという事も、必要であるのです。道場の稽古では、指導の先生方が的確に勧告して下さり、願われるように受け入れるならば、道が開かれるようになっているのです。塞がれた闇の堀に陥る事がないように、一歩一歩前に進めるように稽古をするのです。稽古をして感じると思うのですが、気持ちは願えども、肉体が思うようにいかないのです。その為に、肉体を克服することができる力を、稽古で養うという事なのです。
 ところで、四肢五体という機能が恵まれて、私達には備わっているのです。この運行できる能力を駆使して、新たなる自分を作るという事になるのです。逞しい肉体を創造することができる、土台となる稽古でありますようにと、願いばかりです。そのような意味でも、熱望する気持ちは、柔和謙遜という、意識から出発するのです。これがなかなか確立しないので、私自身も困っているのです。生きた屍にならない為にも、一問一答することができる立場として、謙虚になれるようにと思うのです。稽古は、自然な自分へ立ち返るための修行なのです。それが謙虚な姿として、自分を分別するという事です。日々稽古を続けることで、このような謙遜な姿勢を、身に着けていけるようにと願うばかりです。
 謙虚さは自然に帰るという事のように思えます。そんなことで、畑に来ています。自然の恵みが、畑に実っているのです。四月の初めに植えたジャガイモが青々と花を咲かせています。夏野菜も勢いよく伸びています。私が何も手をかけずに、只自然の道理に合わせているだけなのです。人生も同じであると思うのです。道を外さず、正しく謙虚に生きようとすることが、充実して実りのある、人生になるという事でしょう。何かを究めて、熱望できる精神状態はというならば、柔和謙遜であり、謙虚な姿勢なのだと思うのでした。