2016年6月7日(八段語録2802)
希望(37)

 英雄という存在は、孤独であると良く言われます。確かに、誰も成し遂げたことを無い事を、先頭切って、切り開くのですから、当然と言えば、当然なのかもしれないのです。それでも、私が、気が狂ったように付き進める理由を考えると、理想があり、その目指すべき目標があったという事です。それは、まさに、自分を一番に置いているのではなく、あくまでも理想を一番に考えているという事です。そうすると、その立場は、自己中心主義という事ではなく、あくまでも理想の対象になっている、存在という事です。この事が分からなければ、只のうぬぼれた人間としてしか、映らないという事です。そのような意味でも、極真空手という途方もない理想を追い続けてきているのです。それは、最前線で闘っているという事です。私という存在が、絶対であるとして、突き進んでいるのではないという事です。あくまでも極真空手の理想が絶対であり、そこに向けて求道者として、突き進んでいく私の姿があるという事です。
 さて、私にとって、極真空手は無くてはならない存在なのです。だからと言って、トップではないのです。本来の理想を求めて、追及する立場であるのです。間違っても、私が絶対という事は無いのです。先駆けて開拓して、一歩前に進んでいるだけなのです。そのような立場は、怠けてしまうならば、落第してしまうという事もありうるのです。確かに代表師範として、責任ある立場に立っているのですが、それは、責任を持ち、指導することのできる中心ではないという事です。私が望む願いの中心には、地上最強の極真空手が存在しているのです。この極真空手は、世界でも必要であるし、日本国内でも必要としており、私自身が極めていかなければならない存在なのです。ですから、自らに存在する能力を時間と空間の制裁を受けながら、日々開拓という事なのです。
 ところで、空手の道着を身に着ける時、極真空手の精神を身にまとう事になります。それは、私を超越したところにあるのです。その存在を私は知ろうとし、相似的になろうとすることによって、向上しようとする、私が存在するのです。それは、ちょうど日の光が差せば、全ての存在がその日の光を通じて、生命を開き、どんな自然界の生命体も、日の光に一致しようとするのと、同じなのです。要するに、私の行く道と方向を照らして余りある、極真の道があるという事です。その極真の理想と一致して、ひたすら修行の道を歩むのが、私の代表師範としての立場であるのです。まず極真空手があるから、私自身が存在しているという事を、自覚しなければならないという事です。私が在って極真空手があるのではないのです。極真空手と私は、分立できない一つの調和された姿を備えて、ここまで来たという事が、出来るのです。
 それが、英雄でもない私が行くべき道であり、個人としての人生の願いであるという事なのです。また行くべき道の終着点である事を、悟るようになっているのです。そのような観点を持つに至ったのも、極真空手に出会ったからという事に他ならないのです。確かに、私が入門した時は、少数の群れでした。そして、その極真空手を指導して下さった存在が、総裁なのです。そして、その指示を受ける追従者になって歩んだ人生の生き様があるのです。総裁の主導的能力を源泉として闘った歴史が、自分の歴史になるのです。