2016年6月5日(八段語録2800)
希望(35)

 私には不思議な能力を持っているのです。その能力はというならば、馬鹿げていると言われがちなのですが、現実を直視しないという事なのです。一切の感情を、理想や希望を願うように発想するのです。実に統合失調症のような能力です。感情そのものが、否定的にならないのです。そして、現実を鵜呑みにはしないのです。脳内神経的には、ドパミンとセロトニン、ノルアドレナリンが過剰に分泌されて、希望しか見えなのです。
この眼は、確かに現実を見ているのですが、その現実が見えないのです。私の耳も、あらゆる不平不満や批判を聞くのですが、それ以上に、愛に溢れた歓喜の声を、聴こうとするのです。私の鼻でさえ、腐敗しきった社会の悪臭を、嗅ごうとしないのです。今の現実に飛び交う事件は、悲惨な事が多いのですが、聞き流すだけで、そこに心は置けないのです。この見聞きした事、悪臭でさえ、私の感情は共鳴しないのです。私の感覚も、正反対の立場に立とうとするのです。確かに見聞きして悪臭を、嗅いだ事実を思う時に、汚れに汚れた人間社会を、想像するのですが、良き側面で解放された、最善の姿だけを思い浮かべてしまうのです。
 さて、そのような事を重視するので、現実的な対応ができないという批判があります。それは確かに当たっているのです。私は出来なくても、弟子である先生方が解決するのです。これは、不思議な現象であると思うのです。理想と希望を追い求め、それを仰ぎ見るように生きているのです。この姿勢は、ほとんど変わっていないのです。希望があり理想があるという、話や命令があるとするならば、すぐさま飛び込んで行ってしまうのです。実に極真会館がまさに該当したのです。そして、極真をほめたたえ、その指導をうけ、命令を受け入れることを慕ったという事です。何と人が良いという事でしょう。今もその傾向は続いているのです。
 このような、特異な性質を持っている代表師範という事です。だから、どんなに辛くても、香気がかおる、素晴らしい道場運営の事しか、考えられないのです。自らが感じる一切の感情を、理想と希望の道場に、帰化させている立場であるのです。自ら進んで、退廃的な全てのものを捨てていくのです。酒もタバコもやりませんから、本然の自分という世界を、追求することに事欠かないのです。確かに人を見ても、悪なる要素をすぐに見抜いてしまうのですが、私が一切の感情の汚れを抱かないという、戦法を取るのです。その為に、心と感情全体が、理想と希望に結び付け、良き結果に結実するような、思考になっているのです。
 妻と結婚して家庭を持って、様々な事件が起きました。二人とも平気なのです。それは、現実を直視するという発想でなく、未来の姿を見据えて人生を送っているのです。確かに、道場運営も様々な事件が起きました。それをいちいち覚えていないのです。理想と希望の道場だけを考えて、力いっぱい投入してきたという事です。これからも、このような姿勢はかわらないのです。このような観点に立つことが、私の統合失調症に似ている、天稟であるように思っているのです。
 日曜日という事もあって、一日整理する日にしているのです。そして、夕方には一家団欒の食事会をするのです。家族全員そろって、会話を楽しんだのでした。孫の士紀雅が中心になります。もう彼は、十か月近くになるので、ハイハイから掴み立ち、そして、自分でちゃんと歩く日も遠くないのです。