2016年5月26日(八段語録2790)
希望(26)

 石巻に行ってきました。根白石の畑の別荘に住んでいる池浦工場長が制作した、三台目のボートの進水式の挨拶での出席でした。18ヒートのボートなのです。このボートがどれだけの人を感動させるのかと思うと、それだけで、嬉しくなってきます。人にはそれぞれ才能があるという事なのです。私には能力的に、ボート制作は、できない事です。もうすでに、数か月で一隻作っていくだけの能力まで高まったのでしょう。このようなボートが、多くの人をどれだけ、有益にさせるのかと、ひたすら、考えていました。私は、ボートは運転しませんが、自動車は運転します。それは確かに、仕事をスムーズに行うための、ツールという事もあるのです。また、それ以外にも、車に乗る理由があるのです。自分自身の望みと、喜びと刺激を求めているのです。そのような意味では、車に、こもっている愛情を、高く尊い望みとして、自分のものにしているという事です。そのような感性を抱いて車に乗っているのです。
 さて、ボートも車も、人間の為のものです。両方とも、自分自身で運転するのです。これは、楽しむためのものという事です。便利なツールである事は確かですが、それ以上に喜ばないと、何の意味もなさないという事です。私の場合、よく船釣りに行きます。一日中船から竿を立てて、糸と下ろすのです。獲物である魚が、ヒットすることを期待しながら、じっと待つのです。心が、あらゆるものから、解放されて没頭するのです。竿に集中しながら、魚を釣り上げると、至上の喜びが襲うのです。それがたまらないのです。「生きていて良かった」と生命の権限を与えられたように思うのです。何にも代えがたい、「船頭が終わりです。」と言っても、離れようにも、釣から離れられない気持ちになります。一日中、十分に楽しんだことが、もう忘れることができないのです。
 ところで、このように楽しんだ後は、もういつ来ようかなと、頭の中を巡らせてしまうのです。このような体験が私の望みであるし、目的でもあるようにも思うのです。そして忘れることができない、思い出になるのです。私の願い、望み、切に待ち望んだ事が、実現されるという事です。このような単純な事を、多くの人は忘れてしまっているように思うのです。極真の道を、修行の場として、歩み続けた者として、望みの世界は、単純であると思うようになっているのです。人と人が心と心が通い合い、共に抱き合う事が出来る生活であれば、何ら不満は無いのです。誰も人の心を蹂躙することなく、悲しみを背負う事がないようにと願うばかりなのです。今まで見てきた世間は、悲しい事、辛い事が多く、楽しむことを忘れてしまったようにも思うのです。
 私のように、社会の中でも特殊な道を歩んだものとして、人の愛情に背く事でもなく、辛く生きることでもなく、楽しみを心で感じるような生き方ができるようにと思うばかりなのです。石巻でのボートの進水式で思う事は、このボートが多くの人を楽しませ、余暇をよりよく過ごすことができるようにと祈るばかりでした。私もボートを持ちたいのですが、経済力が言う事を聞かないようです。それよりも、気楽に船頭さんに任せて、釣りのポイントに連れて行ってもらって、楽しい一日を持ちたいと思うのでした。実に生活をエンジョイしたいと願う私であるという事です。