2016年5月23日(八段語録2787)
希望(23)

 午前中、リラックスタイムを持ちました。ボンヤリしているのです。それでも、武道精神を継承してからの、試行錯誤の思いが去来するのです。創始者が理想とする願いと一致させることなど、かなり難しいという事を実感するのです。実際に、会長から八段という段位を頂いてから、もう六年になるのですが、悟りという事を意識しても、本来の願いに立っていないという、嘆かわしい実情なのです。誰から言われなくても、自分で資格喪失という気持ちになります。行動しなくてはいけないのにも関わらず、道を模索しているという現状なのです。もちろん、一挙にスパートをかけるという事は出来ないまでも、構想理想を持たなくてはならないのです。しかし、やり直しの連続という事です。本来ならば、自分の行く方向を整えて、自由な環境で、価値を高く評価されるような道を、歩むべきないのでしょうが、いまだ納得のいかない、人生を過ごしているのです。そのような本来的な役割を探し求めながら、今日も苦しんでいるというのが現状なのです。そのような意味では、偉そうなことの一言も言えないのです。
 さて、思う事は、自己管理が出来て、一人の人間として満足できるように、最初にすべきですが、それが納得できないのです。それは、望みから離れているという事です。極真の道を究めようと、その歩みに向かって、歩に変化を持たせてきたものです。どんなに辛くても、困難が迫ろうとも、そのすべてのものを獲得する、その日まで躊躇することのないように歩もうと思ってきたのです。それを考えると、まだまだ不十分であるという事です。この道に対する確信はあるのですが、松と竹のように、いつも変わらないでいる事が、出来ていないのです。とにかく何が変わろうとも、不変な価値を、表現することができるようにと、発想だけはするのです。多くの道場生は、代表師範の私は、もうすでに悟りの境地であると思うかもしれませんが、今の心境としては、青春時代よりも、今が不足を露出してしまっているという事になるのです。
 ところで、希望という題目で、回数を重ねて、ここまで到達しました。気持ちだけは、理想に向かっているのですが、実際と理想の狭間で悩み苦しんでいる姿を現してしまっているのも仕方がありません。それも、私という事です。そして、この私は、現状に満足することなく、突き進むというような気持は失いたくないのです。自分をどのように推測するかというならば、必ずや私自身の望みは実現することができるという、気持ちを持とうとするのです。そのようなレベルで、あらゆる環境と関係を結び、子供達に極真精神を指導しなければ、ならないという事だと考えているのです。
 世間では、あらゆる凶悪な事件が蔓延しています。この凶悪な世に勝ち抜くに不足ない武道精神を道場生に、身につけなければ、世間を渡っていく事が出来ないのです。ともすれば、流されがちな子供達の健全な教育は、極真空手という切り口から進めているのです。まだまだ啓蒙不足であるし、自らの修練も足らないという事になります。それが、かえって、希望という事になると思うようにしているのです。もっと啓蒙して、もっと修行して道を究めれば、必ず世間が支持してくれる極真になると確信するのです。そのような意味では、この不足な部分を、持ち合わせている私が希望になるという事だと思うのです。