2016年5月21日(八段語録2785)
希望(21)

 どのように考えても、心と体が自由になっているという事は有難いものです。五体満足という恵まれた状態を維持しているのです。もちろん、どの様に活用するかという事は、これからの課題です。果たして、「どれだけ社会に役立っているか」という事を考えてみると、案じてしまいます。今日は根白石の畑で、自然に戯れながら、作業をしているのです。土を耕し、畝を立てるのです。野菜の種を蒔いて、夕方までひたすら土いじりを続けるです。自然の里山に心を奪われ、音楽を聴くのですが、日々反省です。正直な気持ちは、このように年齢を刻んできたとしても、まだまだ申し訳ない気持ちで、何に対しても頭を下げずには、おられない心境になります。そうでないと、次に行くステップが踏めないのです。年齢を過ぎれば、自信満々という事になるのだと、勘違いしていたのです。しかし、行けば行くほど、知れば知るほど、足らなさに、肉がえぐられるような気持ちになる事がしばしばです。
 それは何故なのかと自問するのですが、これは、周りの環境と、道場生という弟子達が存在しているからという事なのです。もちろん、試行錯誤しているのですから、私が優れているという事は、一言も言えないのです。また備えているとも言えないのです。つまり、備えるべきものもまだ不十分であるという事です。そのような意味では、周りの環境を尊重して、周りと喜び、決して裏切ることが無いようにと願うばかりなのです。
 ところで、日々の心は、どのような位置に存在しているのかと考えてしまいます。今日、農作業をしながら、この心は何を待っていて、何よって動いて、どこに置かれているかという事を、望んでいるのであろうと、いろいろと考えさせられるのです。畑の真っただ中という静寂な場所の真ん中で、鍬を持つ手に、生命の価値を感じて、急き立てられるのです。確かに、心は自分の生命に捕まっています。それでもあえぐ心は、あらゆる事情を乗り越えて、どこかに向かおうとしているのです。自分の心という事ではなく、この心には、先祖の願いや、家族の願い、地域の人達の願い、そして道場生の願いに支配されているのです。それ故に、平常心を装いながら、心正しい人、つまり、本性の人、本質の人、多くの人に役に立つ人を目指そうとするのです。そして、今瞬間は、土に親しみながら、全ての人と合い和する人格になれるようにと願うのです。
 自分を振り返って、劣っていると思いたくないし、また優れていると口が裂けても言えないのです。ただ心を通じてあらゆることに対応していかなければならないであろうと思うばかりです。畑の土壌は、短い間に造られたのではないのです。親父の時代、そしてその前と、作物を作りながら、土壌改良して今に至っているのです。そう考えると、時間をかけて、築かなければならないという、自分の心の立場であると思うようになっているのです。その事を、農作業をしながら、心の中深く染み込んでいくようです。人生の終わりが、いつ来るか分かりませんが、新しい心の位置が、自然と戯れる中、爆発してくれるようにと思うばかりです。そのように爆発した心を、多くの人と合い和して、良い影響を与えていく事が出来るようにするのです。そのような新しい覚悟と決意を自分自身の真ん中で爆発させようとするのです。