2016年5月18日(八段語録2782)
希望(18)

 情報社会なので、世界中のニュースが伝えられます。大切な事なのですが、気持ちが伴わず、当たり前に「そうなのか」と、うなずく場面が多くなってきています。そのような、現状に対しては、待ったを掛けるのです。マスコミが流す情報が、商品となって、ある意志の元に、流れているという気がしてならないのです。それは、マスコミのせいにするのではなく、自ら気持ちで情報を掴むという、努力の欠如という事なのだと思うのです。難しく考えるのでは無いのですが、情報を通じて世界を知る者となるのではなく、気持ちが、世界を知りたいという思いになりたいという事です。繰り返すようですが、情報を通じて世界を知るという事ではなく、気持ちが世界を包み込むという事でなければならないという事を考えるのです。熊本の地震という事を考えても、被災者がどれ程苦労して、苦痛に見舞われているかという事が、心に感じなければ、情報の意味をなさず、更に、心を持っている意味をなさないと思うのです。そして、慰労して挙げ、手を差し伸べてあげることができるような人間としての生き方を願うのです。
 さて、私の生涯の目標があるとしたならば、気持ちの通う生涯の目標を追求したいのです。生きているという、生活の内容を備えるとするならば、血の通った生き方をしたいという事です。人の生き方としては、誰の為に留まり、何の為に動いて、どこに向かって進んでいるかという実感をしなければ、ロボットのような人間になってしまうという事です。そのような意味では、情報を気持ちで捕まえて、世界中が共に動じ静ずるような心境になれたら、幸いではないかと思うのです。そうでなければ、幸福感とか生きている実感というものが、失われてしまうような気がするのです。私はロボットではなく生命体なのです。その生命体として、理念を持ち、愛情を抱く人生として存在しているという事です。歌い喜ぶような生き方をしてきたし、これからもそうでありたいと思うのです。また、誰かを慕い、慕われたいという事を願うのです。
 ところで、このように表現するのも、何であるかというならば、心と心を連結させた生き方がしたいという事です。気持ちで、人が結びつかなければ、何の刺激も起きてこないし、衝撃と喜びの境地も、生まれてこないという事です。そのような覚悟を、私は持っているという事なのです。情報を商品化するような、ワイドショーにはついていけないという事です。そんなことで、踊らされて、いい加減な気持ちで判断するようでは、自分を失ってしまいます。そんなことよりも、愛情を抱いて、他人であっても、隣人の如く、親身になって、物事に対応できるような人として、生きたいという気持ちになります。もうこれは、私の人生に身についてしまっているのです。
 このような人生を過ごすことの意義を見出し、遠回りでも、たどり着いた結論なのです。科学技術や交通網が発達し、何でも便利になって来ていますが、それは、心で、世界中の人と対応する事が出来るという、恩恵を受けているように解釈しているのです。当たり前の正論が通じていく時代なのかどうかはわかりませんが、それでも、信念を持った生き方をしていくという覚悟だけはしたいものです。