2016年5月15日(八段語録2779)
希望(15)

 保護司として、悩みはつきものです。一生懸命に社会に貢献して、頑張って来られた方が、重大な間違いをして、刑に処せられるのです。そして、再び社会に舞い戻ってきた時に、どの様にしてあげたらよいのかという事を考えてしまうのです。対象者の経歴を見ても、一生懸命努力を重ねて、家族と地域、そして戦争という混乱の時を、外国で捕虜となり、再び社会で貢献してきたのです。年齢を重ねて、現在の境遇にあるのですが、その方の頑張ってきた時代を、再び取り戻してあげたいという思いになるのです。面接として対面で、本人と話すのですが、シャキッとして罪を償う姿勢を持っているのです。今年の11月、私との面会の最後の日を、贖罪の一定の区切りとして、健全な生活をして、健康でいようとするのです。人生で失敗したその日から、心は際悩まされて、葛藤の日々で、心は、蹂躙されたに違いないのです。ただ単に、面接をするだけという事ではなく、その方に対して、その方の事情を深く知ってあげて、心の解放をしてあげるのも、保護司としての務めであると思うのです。
 さて、この方に関しては、面接を一年以上も重ねてきました。何を聞いてきたかというならば、数多い苦労を一つ一つなのです。それを紐解くように聞いてきたのです。その方の人生にしみわたった生き様を、保護司として、伝え聞くという事も、一つの役割であると思うようになっているのです。充実した人生を送っている人は、家族や親戚が聞いてくれるのでしょう。しかし、このような境遇に置かれた人は、私しかないという気持ちで話を聞くのです。もちろん、犯罪という事に関しても、マイナス部分として受け止めるですが、生涯という人生を聞かせてもらう事も、大切であると思うのでした。特に昔気質の人ですから、悲しみよりも喜ぶことができる心を、所有できるようにと配慮するのです。
 ところで、今、対象者は、老人ホームの片隅で、散歩をしたり、庭の手入れをするように心がけたりしているのです。少しは買い物にも、出かけることができるようになったと喜んでいるのです。何もできないのですが、保護司として、対象者の人生を賛美してあげるという事も大切であると思うのです。人生確かに重苦しい道、闘いの道、犯罪に陥った道と、重なり合っているのですが、それでも、確かに誰もが認めるような素晴らしい業績を残しているのです。それで、その思い出を思い浮かべて頂き、少しでも手助けになるように心がけるのです。
 高齢者としての対象者に関して、何か反省するという事は、心と身体を侵犯していくようで、なるべく除去するように対処したくなるのです。私に願われていることは、寛大な懐で対応するという事なのだと自覚するのです。その方が元気で頑張っている訳ですから、何かできることがないかと探すような気持ちで、面接をしていきたいと思うのでした。私の年齢では、カバーできない部分は多くありますが、面接の時も、訪問しない日も、片時も忘れることなく、思いやってあげるという事しかできないのです。それも、保護司としての仕事は、いかなるものかと自問しながら、対応しようとしているのです。まだまだ足らなさだらけの自分を振り返ってしまうのですが、今日という日も共に、成長の良き日として、面接なのです。人を大切にする心の連続する日々という事です。