2016年5月9日(八段語録2773)
希望(9)

 今日も、この肉体の切磋琢磨に、余念がないのです。この歳になっても、肉体の管理が、大切であると実感するのです。本来の私の肉体の強さは、こんなものではないと、思うような年齢になってきたという事です。若い時の、肉体の最強さと比べれば、話にならないのです。それでも自己管理から、最強の肉体を維持しようとする、気持ちだけはあるという事です。若き日の肉体の強さが、忘れられなくて、その時の状態に、挑もうとする、自分があるという事です。そうでないと、喜びも半減してしまうのではないかと、恐れるばかりなのです。極真精神の切り口を、完結させるつもりで、日々歩んでいるという事です。それが、私自身が達成したという、充実の時であると思っているのです。それを待ち望んで、日々闘っているという事です。人生を流れのままに、ただ終了するのではなく、その日を待ち望んで歩み続けるという、生き方もあっても、いいのではないかという事です。人生最後の日は、栄光の日を迎えることが、できるようにしたいものです。それが、反省と審判であるとしたならば、悔いだけが残って、恨めしい人生という、結論になってしまうかもしれないのです。
 さて、この肉体は、親から譲り受けたのです。それだからと言って、それに安住するわけには、いかないという事です。新たに、自分の意志で、自分の肉体を鍛えあげるという、作業をするのです。頂いた肉体をさらに、自らの手を加えるという、作業が未だに、続いているという事です。私のやりたいと思う事を、成し遂げることができる肉体に、改造しようとするのです。私自身が、思う存分に戦い抜くに、相応しい形を整えたいという事です。高齢者に入ろうとする年齢ですから、体調を崩すならば、いつでも、お向かいが、来てもおかしくない、年齢という事です。健康な肉体が無ければ、夢とか理想とか言っても、何の意味もなさないという事です。今の道場生と共に、夢の実現を果たしたいという事です。短的に言うならば、輪の中にいたいという事です。そうすることによって、道場生の喜びが、私の喜びとなり、道場生の楽しみが、私の楽しみになるという願いなのです。
 ところで、思う事は、本当に私自身未熟であるということです。まだまだ修行が足らないという事です。それで、健康であれば、その未熟さを時間と空間という環境を通じて、補う事が出来るのではないかと思うのです。この心と体で、道場生と共に歩むという意識を高め、「充実することができる人生とならしめたまえ」と願うばかりなのです。今まで、もし迷惑を多くの人に、かけているとしたならば、除去し清算することができるようにと、思うばかりなのです。言うまでもなく、健康を害するような、病気もしたくないのです。健康な本来の肉体のままで、道場に臨むことが、できるようにという事です。妻の千順さんの指示通り、食べ物に気をつけながら、対応するという心構えが良いという事です。
 そのような気持ちをひっさげて、トレーニングに励む、自分の姿があります。それは黙々となのです。決して派手ではないのです。地道な作業の連続です。そのトレーニングを自分に課して、一日一生でしょうか。そんな気持ちが、いい結果に表れて、くれればという気持ちです。決して、人知れずに過ごす人生ではないのです。華々しく、輝かしい生き方を、人生というステージで演じていきたいという思いなのです。スターは私という意識でしょか。