2016年5月3日(八段語録2767)
希望(3)

 一生は「太く短く」と決めて、無茶をし続けてきたのでしたが、こうして許されるように、生かされていることに、感謝なのです。睡眠時間を削ったり、極真で無茶な組手をしたり、全日本に参加し続けたり、何を考えているのかと、自分でも、自問自答してしまう日々が続きました。それにしても、今も元気に極真空手に携われているという現実は、「まだまだ使命半ばという事」と自覚するのです。日々、自分なりに、心を洞察するのですが、この道に、間違いのないという、心を備えて、奮い立たせてきたのでした。道場の稽古の時間は、どの教室であれ、緊張するのです。例え、直接指導していなくても、道場生に私の心の、意識が行かないことは無いのです。道場生の汗と涙が、報われるような稽古になるようにと、祈らざるを得ないのです。私は、極真空手の指導を、宮城県で任せて戴いている立場なのです。指導員の先生に、命じ任せるという事なのですが、代表師範が最終責任を持つという事なのです。
 さて、仙台市という街に、道場生を呼び集めて指導してきたのですが、二十数年の間、道場生が延べ五千人を超えるほどになったのです。振り返れば、多くの道場生を育て、我が子のように注意をさせて戴き、代表師範の生命の躍動する圏内で、育った達という事になります。別に私個人が集めたのではなく、極真の伝統精神が呼び集めたという事です。燃え滾り炎の如く、指導したことが、脳裏をかすめます。私の精神と肉体が躍動し、道場生の教育の内容として、現れるように願ってきたという事です。極真精神が、私の不足しているレベルを補ってくれたことは、間違いない事です。それだけでなく、稽古している時間、「我ならぬ我」の極真精神が、道場全体を覆いつくしてくれたことも、実感しているのです。そして、極真精神が、稽古全体に現れるようにと願ってきたことも、間違いないのです。 
 不足な、代表師範に帰属意識を持って、支えている指導者の皆さんには感謝なのです。ただただ、私としては、愛情を注ぐのみなのです。そして、極真の栄光に向かって、道場生の心を、この道に傾き得るように、指導していただいていることに、もったいない思いがするのです。指導員の先生方が、代表師範を意識し、菅野師範を代表し、極真の本質を磨き、武道精神の門を開いているのです。そして、その結果、どの教室でも、生き生きとした、充実した稽古を実践しているのです。その指導に道場生は、動じ静ずるように、伝統を肌身で受け継いでいるのです。
 極真精神は、取りも直さず、世間の邪な誘惑から逃れ、逞しく、自らの道を推し進める為の、日本人が持つ、昔から伝わっている精神なのです。それ故に、いかなる試練が待ちままえていようと、立ち向かう事が出来る術を学ぶのです。そのような意味では、極真空手を道場生が、ないがしろにすることが無いように、願うばかりなのです。途中で、道場に来なくなる道場生が、無いようにと思うのですが、それは、指導員の先生方に掛かっているのです。それを思うと、代表師範の私も含めて、成長し続けていかなければならないという事に結論つくのです。その成長が、健全なる道場生の成長につながるように努力を重ねるという事です。とりあえず、指導員の先生方が成長することによって、極真で鍛えられると約束しているすべての内容を、伝授することができるようにという思いになるのです。