2016年4月29日(八段語録2763)
自己の成長と創造

 五年も過ぎると、道場の運営は、順調に基盤を形成していったのでした。しかし、基盤ができるという事は、様々な事件が起こるものです。しっかり弟子として育てた人が、自分の所有権が確立すると、理由はともあれ、裏切っていくのでした。要するに、自活できるという確認のもとに、持論を展開するという事でした。帰属意識は薄れ、平気で公認されないのにもかかわらず、師範を名乗るのでした。民主主義を逆手に取り、したい放題という結果になったのです。極真の名のもとに、一つになるという発想ではなく、個別の主権を主張するのです。極真の伝統とか、お互いが子弟の関係であるとか、自分の極真での立場の属性がどうであるかという事は、もう触れる事は無いという事でした。極真会館の全貌を把握するとが出来ず、極真会館の出発の原点、目的、そして願いという事も全て無為にしてしまうのでした。人が守るべき規範、これが武士道として歩む規範も、結局は関係が無いと言わんばかりでした。
 さて、宇宙に目を向けるならば、縦横の秩序の体系が整っています。それと同じように、家庭においても、祖父母、父母、子女からなる縦的な秩序、兄弟姉妹からなる横的秩序の体系があるのです。宇宙と相対するような価値観、すなわち規範が成立しているのです。その秩序を、極真会館宮城県本部という立場で、規範精神の破壊行為を行ったのです。私が弟子に対して、害を加え、居たたまらない状況を形成されているとしたならば、それは問題になりますが、人格的にも、経済的にも、しっかり擁護してきたのですから、謀反としか言いようがない、現実を突き付けられたのでした。私の精神からしたら、考えることができない事でした。父親が亡くなって、霊前に座って報告し、仏教の作法に従って、礼を尽くしたことを思い出すと、砂をかけられた思いがしたのでした。
 ところで、この謀反があった時から、私は、絶対に人倫道徳に違反するような生き方はすまいという決意を固めたのでした。今の法律は、ローマ法を基礎として作られており、現在の世界文化の下地となっていると言えますが、人倫道徳は、どこまでも良心に根拠があると思っているのです。私の価値判断では、法よりも良心であると思っているのです。それは性善説を唱えている私にとって、善を標準としているのです。たとえ、良心が、ある過ちを犯したとしても是正してくれるのです。つまり、純粋な良心に一致する、普遍的な社会体制を形成しようとするので、法律も必要になってくると捉えるのです。 
 この謀反にあって、感じたことは、人として貴いのは、人倫道徳があるためであるという思いがしたのです。人倫とは、当然、人との関係を言うのです。一人を巡っては人倫とは言わないのです。二人以上の関係があって初めて現れるのです。男と女が結婚して、家庭から、社会に至るまで社会の、倫理という言葉が成立するのです。「人倫とは何ぞや」と問いかけるならば、人間関係の道理であり法則であるのです。また人倫道徳を考えると、人の情を中心に形成されていると思うのです。このような事件を受けて、私は裁くというよりは、何れは人としての、人倫道徳に立ち返るであろうと思っています。それで、私の態度は、胸襟を開いて許していくという事なのかもしれません。結構、心の葛藤は在りました。しかし、時が立てば、許しの気持ちが湧いてくるものです。