2016年4月28日(八段語録2762)
自己の成長と創造

極真会館宮城県本部の成功できるか、できないか、また道場を通じて目的として成就できるかどかどうかという闘いが、創設四年以降に、願われるようになりました。その願われる方向に向かって、確実な観点を立てて、そこに、的中しる方向に、一致する努力を備えて行くのが、何よりも重要な問題になってきました。極真会館宮城県本部も、法人格問題を取得して、対社会的にも信頼される状況も生まれてきました。今までは、地上最強の空手とか、様々なマスコミを賑わしていましたが、現実に地域に密着している、極真会館であるかというならば、決してそのようなことではなく、エイリアンのような存在であったのです。総裁が、亡くなってもうすでに、10年以上の歳月が流れたわけですから、新たなる伝統を立てなければならない、時期に入っていると思えたのでしした。
総裁の方向の一致ということを考えてみると、総裁の目的と、私は直線上に立つべきであると思えたのでした。具体的には、手塚会長の理想に立つべきであるということを意識したのでした。それは、道場の運営において、ちょうど歩くと同じように、右足を動かし、左足を動かす時、その目的と直線で一致する、位置を取らなければ、必ず食い違っていくと同じように思えたのです。歩行は、ただ一歩でも踏み損なえば、歩くことができず、食い違いが起こるのです。右に偏ってもダメであるし、左に偏ってもダメということです。それゆえ、中庸の姿勢を取って、その目的と引かれる直線上で、一致させうる自分を発見するところから、道場の目的は達成されると思ったのでした 。
ところで、もし直線から外れるならば、間違いなく脱線してしまうということです。私が会長とよく話をするのは、お互いに見て感じるです。すなわち、五感を通じて感じる全てを、自分一人よがりにならず、会長と共同の目的に向かって、共同的立場で、共同的方向を取るということを意識もしたのでした。私は、いつも会長を仙台に呼ぶようにしました。会長と食い違えば、本当の極真会館の目的に合致することがないと思ったのでした。なぜそうかと考えた時に、方向を間違えると、苦労が全て水の泡になるという恐れを抱いたのです。互いに消耗戦になって、お互いが疲弊してしまうと思ったのです。会長を支えた高弟達が、会長を裏切った事実は消すことはできないのです。
私は、極真会館宮城県本部をして、決して会長と袂を別つという事はすまいという決意が、滲む時期であったと思うのです。今もそうですが、会長と共に歩むという直線から決して逃れないように歩んでいるというのが、今の宮城県本部なのです。