2016年4月26日(八段語録2760)
自己の成長と創造
師範になって、三年目、ちょうど五十歳を迎えんとしていた時に、仙台市青葉区中江に、倉庫の貸し出しがあるという情報をキャッチして、すぐに賃貸に動きました。まったくの倉庫でしたので、床張りをしました。周りを丈夫にという事で、合板のべニアを張って、ぶつかっても壊れないように工夫しました。二階はちょうど事務室に出来るようでしたので、内装を重ねて、四月には極真会館宮城県本部の、常設道場の設立を見たのでした。なんでも時があるという気持ちでした。忙しく稽古を繰り返している中、常設道場を要望する声が上がってきたので、経費は嵩んだのですが、今だという事で決断をしたのでした。何事も時があるという意識だったのです。師範として三年目という事で、勝負をかけたという事です。このような起源というものが、我知らず過ぎていくという事を感じたのです。それで、今という結論を出して、常設道場の開設に踏み切ったのでした。
さて、私が若き日に、極真会館という団体で、全日本で優勝する選手や、映画に出演して有名になった人も多く存在しました。その人達がいくら優秀で、空手の知識を持ち、腕力があり、全ての仕事を自分に意のままに出来る、条件を具備していました。それでも、時を合わせられず、環境を持てなかった人が多かったのです。よく叔父から、伊達政宗の話を聞かされたのですが、もう少し早く生まれていたら、天下を取っていたという事なのです。真偽はどうであれ、時代にうまく合って生きなければ、成功しないという事なのかもしれません。私には奥州の覇者という事で、立派なものだと思うのですが、叔父はもっと優れた城主であったというのです。
別に比較にはなりませんが、そのような事が、根白石の畑でもありました。去年の夏、遅くなって、秋口に掛かって、白菜を蒔いたのです。結果、葉が巻かなかったのです。結局白菜としては、全くダメという事でした。師範になって、三年目に決断した事は、時であったと確信しているのです。その後、組織運営を行うようになって、教育システムが出来上がり、人材が育ったのでした。私が師範として選ばれて、その選ばれた位置で、一生懸命努力すると、もっと輝ける価値を追求することができるという事です。これは、私の欲望になったのです。もちろん、このような欲望が私を刺激したとしても、これを実践するという事は、容易ではないという事でした。あらゆる試練が待ち構えていたのも事実でした。その時感じた事ですが、師範になった時も、ならない時も、一日を始める朝がきます。それは同じ朝なのです。しかし、師範になってからの私の心の中心は、相当変化したという事です。言い換えれば、責任感が増し加わって、平坦な道であっても、そうでなくても、雄々しく立ち向かえる人に育ったという事でした。
師範という立場が、この時になると、確実に冬が過ぎて、立春が来て、この立春が何時頃からか、自分の生活に訪れてきたという事です。損益も考えず、基盤拡大に向かったのです。それはとても面白かったのです。宮城野区を初めとして、青葉区、太白区、泉区と拠点を伸ばして、それなりに人材が育成されていきました。この発展が道場生にいい影響を与えたのは言うまでもありません。東北地方の大会では、優勝者から入賞者まで、上位を占めるようになりました。体力も余っていましたので、現場の指導も繰り返したのです。とても恵まれた期間を過ごしたという事です。