2016年4月24日(八段語録2758)
自己の成長と創造

 拠点を榴岡に置いてから、私が指導した道場生が訪ねてくるようになりました。今の菅野師範と大友師範の二人は、この時、中心的に活躍した人達なのです。この極真会館宮城県本部が権威ある地位に進む為の礎を築いてくれた二人という事です。そして、専門的な指導と、組織拡大を遂行していったのです。私もそうですが、特にこの二人は、専門的な分野を履修していくことになったのです。一つの道場を打ち立てるために、その分野の専門要員が集まったという事です。そうでなければ、今の道場は無かったのです。要するに将来を担う専門家が集まってきたのです。そして、その師範たちが中核になって、多くの道場生を正しく指導している現状になっているのです。私は、その専門要員に対して、「どのような精神を持つべきか」という事を徹底的に指導させていただきました。私の指導は全身全霊の魂を傾けたのは当然の事です。
 この時に私は、自分の道場を運営するために、あらゆる努力を重ねたという事です。人生での経験はもちろんの事、あらゆる資料、少しでも有益な資料があるとするならば、飛びついたものです。もう私の威信など考えることもせず、ありったけの力を尽くして、必死になって道場を運営したのでした。極真会館宮城県本部の為には、私財を投入して、全部無くなったとしても、道場の運営を優先したのでした。生命をかけて、道場を軌道に乗せようと努力する立場にある私にとって、惜しいものは何もないという覚悟でした。そして、未来予想図を描きながら、道場の運営を掘り下げていったのです。そのように真剣に正しく歩むことが必要でした。それもしないで師範と、名乗る事などできないという意識でした。毎日指導に立ちました。それも同じことを何十回、何百回、何千回と繰り返すのです。そして、伝統を定着させていったのでした。 
 この時期は、精神と肉体が内外共に充実していた時期でした。もう青年の時よりも激しい稽古をしたという事です。未来の一時を賭けて、越えるべき運命に、置いたという事です。ここで、後退したならば、悔しい思いが残るだけという意識だけでした。志を持って臨んでいるのであるからには、足を止める訳にはいかないという事です。激しくこの時期過ぎましたが、あらゆる経験を積んだこともあって、一歩でも間違えば、大変になるという立場にまでも追い込まれました。それでも、苦しくても一歩一歩踏みしめて、這い上がろうとする決意の連続でした。明るい明日の願いの峠を越えて、希望の草原に臨むことができるようにという信念だけでした。一回の稽古でも準備して、適当にあやふやにすることは無かったのです。
 このような厳しい原則を貫いて、確実に、明日の勝利者になろうとしたし、道場生の手本になろうとしたのでした。当然、道場運営だけではないのです。消防団を初め、保護司、覚せい剤防止指導員、社会を明るくする運動、地域のあらゆる奉仕活動に携わっていったのでした。エネルギーが充満する稽古はもとより、極真会館宮城県本部が、地域に根差していくという宣言でもありました。当時は、まだ極真空手は、有名でしたが、地域に根差してはいなかったのです。その開拓の道を敢えて、私が邁進したという事です。そのような日々が続いて盤石な基盤が出来ていたのでした。