2016年4月23日(八段語録2757)
自己の成長と創造
榴岡軽体育館に拠点を移して、師範として活動を始めました。ここでも、さらなる経済問題はついて回るのです。これはどうしようもない事でした。経済問題が、いつもついて回りますが、私の決断としては、「何とかする」という戦略でした。経済問題で行くべき道を閉ざすことは出来ないという信念でした。そのような気持ちをかげ、汲んでくださったのが、袋原内科医院の熊谷先生でした。多くの寄付をしてくれたのです。本当にありがたかったのです。多くの師範が、裏社会から援助を受けたと聞くのでしたが、私の場合、一切関わらないという決意がにじみ出ていました。極真会館宮城県本部を生かすのに、きのこは、どんなものが食べられて、薬草は何で、毒草が何であるかという事を理解する、年齢に達していたという事でした。それでも、経済的に困ったとしても、どのようにしても生き残ろうとする決意が滲んでいたのです。
そして、毎日のようにチラシを配布して宣伝をし、道場生を増やそうとしたのです。それは、思うようにはいかない日々の連続でした。経済問題よりも、愛情を投入するという日々でした。道場生になってもらう事も大切でしたが、多くの人に関わろうとしたのです。初めは、精神的試練は多かったのです。手塚会長も心を砕いてくださって、大人の事情を整理してくれたのです。それは、大変ありがたかったのでした。
さらに、一国一城の主になると、気持ちは激変したのです。若い時は、刺激的な事、絶え間ない変化を好んだものです。しかし、主人になると、違ってくるのです。その変化する環境を収集して、消化できる能力を最優先するようになるのです。そして、冒険と危険性の多い青春時代と違って、あらゆることを学び学習することをメインとするようになるのでした。
学びの道は、先輩達が歩んだ道を習い、経験を積むという事でした。そして、主人として克服する訓練をして、人格を造成しようとするのです。こうなると、どのように激変しても、いくら悩まされることが多くても、全部、見事に超え、格好良く克服していく訓練ができるようになるという事です。主人になると、自分の心に合う訓練が何であり、自分の嫌いな訓練は何かはっきりわかるのです。そして、嫌いな訓練でもしっかりしなければ、発展することができないという事も悟るのです。
若い時に東西南北、日本中を歩んだ事が肥料になったり、稽古に明け暮れたことが、エネルギーの源になったりしたのです。若い時は定着できる道など考えることができませんでしたが、あらゆることを知ることができたのでした。このように環境が悪くても、今の主人の立場を確立したという事を、感謝すべきであるという結論なのです。
有難い事に、私の場合、師範になるまでに、世界を一周したのです。ロシアには、五十歳になってからでしたが、それ以外の国々日は、行き来したのです。若き日の苦労が、師範としての闘いに有利に働いたという事は言うまでもないのです。師範としての道は、容易ではなかったのです。それでも若い時に訓練が生きていたために、この方法が駄目であったら、別の方法を思い浮かべ、それ故に、あらゆる経験を若い時にしたことが、悪の誘惑に乗らないという立場を貫けるようになったのです。