2016年4月22日(八段語録2756)
自己の成長と創造
2001年 四十八歳の時に、師範の立場を手塚会長によって与えられたのです。これまでの修行時代が、客観的に振り返る事が、出来るようになったという事です。ここまで歩んできた「私」の事を、考えられるようになったのでした。それも静かにです。私という存在が生まれて、どこに行こうとしているのかという事です。結構、紆余曲折が多いのです。このような立場に立って、過去から見つめると、小学校、中高等学校を経て、家出をして空手の修行に邁進し、故郷に帰ってきて、大学に入って、大学院まで学問をしてというように、現時点から見ると、いろいろな過程がありました。この過程は、結果人生において、歩んできたという事実なのです。
さて、このような道は、学友達とは全く違っていました。大学を卒業して、月給をもらう大企業や公務員、銀行にと就職していきました。彼らは最終的に何を見つめているかという事でした。要するに、食いぶちの良い土台を築いて、それなりの女性に出会って、子供を産んで、暮らせるようにという事でした。そのように暮らした年齢を重ねた友人と、同級会で、会うのです。そのように暮らして、歳をとって、何だったのだろうと話しかけてくるのです。
私の場合、全く社会の列外から出発したのでした。多くの友人達が見つめている世界とは、まったく違っていたわけです。友人達は、全員ではありませんが、いくら稼ぐ月給取りになるか、その月給に心を奪われ、つまらない人生を送ったと口々に言うのです。私の場合、月給取りには成らなかったのです。月給取りにはならず、人生における主人としての道、つまり一国一城の城主を目指したのでした。私が就職の為に、多くの人が歩む道を行くことができなかったのです。そのような生き方の人の側に、立つことができなかったという事です。私の場合、友人達と同じ道を行くという事は、実に気持ちが悪かったのでした。能力が人よりあると思った訳でもないのです。ただ出世するような生き方は、自分に向いていないという気持ちでした。私自身、安楽な生活を、夢見ようとする気持ちは、無かったのです。自分の幸福よりも、もっと次元の高い武道精神に立脚して、多くの人に役立つような、生き方をしたいという欲望が強かったのです。
そのような気持ちでしたので、次元が違う、生き方になったのです。また全国を隈なく回って視野を広めて、多くの人に役立つ、生き方をしようとしたのでした。極真会館で肉体の極限まで鍛えました。そして、学問を八年の間費やし、修士の資格を勝ち取りました。それでも、この肉体と学問を私の生命と比較して、対等であるとは考えることができないのです。この生命と何物にも代えることは出来ないという事です。師範と修士、それを私の生命と比較することができるかという事です。答えは簡単です。生命の価値が貴いのです。比較にもならないのです。私は、確かに師範と修士にタッチしましたが、より価値のある生命、より多くの人の為にという結論を得たのです。手段は師範と修士ですが、これを通じて多くの人の為になろうとしたのです。このような生き方が出来たという事が、この四十八歳の時でした。できたというより、出発の発射台が出来たという事でした。本心が願う位置が、確立するまで、実に四十八年かかったのですから、気の長い生き方という事です。