2016年4月17日(八段語録2751)
自己の成長と創造
1998年、四十五歳には、順調に道場生が増加して、審査会・合宿と多く参加するようになりました。仙台の繁華街の一番町という道場生が集まりやすい環境で、一年間、大学院に通いながら、必死にボランティアで無料奉仕として、頑張り続けたという事です。それだけでなく、地域への貢献という事を考えて、これもまたボランティアで、消防団に入団するという事にしたのです。学問を初めて、図書館通いが多くなって、時間も、もったいなかったのですが、気分転換という意味も含めて、奉仕活動もしっかりしようとしたのでした。私の活動には、経済活動が入っていないのです。それでも不思議に生活が出来ているという事でした。これは支えてくれた妻のお陰という事でした。
さて、人の身体を見ると、骨は見えないのです。しかし、確かに身体を支えているのです。このような骨と同じように、見えなくても人格の骨を確立するような歩みをしていたという事です。人には人格にも骨があるように思うのです。人格という人の形態、それを備えた人の形という、中身の骨まで見えるかというならば、私は見えるであろうし、確かに存在すべきであると思うのでした。指導者としてしっかり人格の骨を作るという意識をしたのです。そして、最も指導者として必要な事は、愛情の後光という事です。聖画のように、キリストの周りが光の輪で包まれているように、私の背後に後光が、錨が降ろされるように、定着しなければならないと思ったのでした。その後光の中心に何を置くかというと、技術や技ではなく、愛情を置くという事です。その後光には、一生の間、多くの人を照らす位置でなければならないと思うのでした。
ところで、師範代として、目指したのが心身一体という事と、ゼロから始めた道場ですから、死に場を求めるような境地という事でした。道場生の為に、多くの人の足の裏でしっかりと踏まれなければならないという思いなのです。師範代という高い位置に止まって、顎で人を使うようではいけないという事でした。高い理想を持って、踏み付けられなければならないという気持ちです。これしか道場の発展は無いという思いでした。道場の指導者であったとしても、踏まれて、冷遇されても、全てを消化し、喜んで指導する道を選択することでした。実際の環境として、師範代になったのだから、良い位置で楽しく、良い暮らしをしようとするのとは全く異なっていたのです。徹夜して、修士論文を仕上げる闘いをして、休むことなく、道場で稽古をつけ、さらに時間があれば、ボランティア活動に出向くという毎日という事です。
毎日を忙しくしていたのです。それでも病気にもならず、死んでも、道場の発展を意識して、中心に経済を置いたのではなく、その中心に極真を置いたという事です。その中心に入って、どんな苦痛も忘れて、我が道を行くという決意の連続という日々でした。そのような気持ちですから、道場生がみるみる増えていったのです。入門者が四百人を超える頃には、十分な指導者としての内容が身についてきたという事でした。無私の心が道場生にも伝わったのもこの頃でした。もちろん、地域社会でも、ちょっと異色な人が地域の為に貢献しているという噂も生まれていました。そして、法務大臣から保護司の委嘱を受けて、保護司活動も始まったのでした。