2016年4月13日(八段語録2747)
自己の成長と創造
大学生時代は、四十歳代前半という事もあって、体力勝負が可能であったのでした。学問に力を注ぐ傍ら、大学には、松濤館流の伝統空手が部活活動をしていました。一週間に何日か稽古に通うようにしました。基本も移動も型も組手全て、極真空手とは違っていました。何も極真を主張することなく、指導されるままに、伝統空手を学ぶようになったのです。まず、違っていたのが、体力作りです。鋼鉄のような筋肉を築き上げてきた私にとっては、身体づくりに対しては、物足らなさを感じたのでした。伝統空手は、相手を倒すという発想ではなく、寸止めで相手にスピードを持って技を決めるというルールでした。倒すも倒されるも関係がないのです。私に対して何も分からないようにして、指導をしていた主将には、滑稽としか映らなかったのです。何か月かして審査会にも参加しました。指導する先生が、内容があるわけでもないのですが、権威を持って、振舞っていました。ふと我を振り返るのでした。結局一年余りで、私の存在が迷惑という事なので、休部届を出して、パッタリ通わなくなったという有様でした。
さて、そのような事があって、学問と空手道に関して、本物を求めようとする意識は強くなりました。一体このような姿勢は誰に似たのだろうかとふと考えたのです。間違いなく父親に似ているという事です。父親がそうであったように、私もそうだという結論なのです。完全に、親に似たという事でしょう。親父も、三十歳近くで、太平住宅に入社して、社内でバトルを繰り返したのです。色々な人事にも、栄転も左遷も、全て受け入れた、四十数年社内で闘った姿が、自分の歩みと重なるのです。親父の人生という作品と、私が歩でいる人生の作品は類似しているように映るのです。時代も違っていますが、必死に家庭を守って、先頭を切って、弱みも見せずに、手本を見せてくれた姿を、今、私も行動していると本当に思えたのでした。親父の作品は、私を含めた家族でした。そして、その戦いは、環境を調整して、家を七件も建てていった所にも見受けられるのです。また農家という立場も取得して、農業にも勤しむのです。裸一貫から、家と土地、さらに農地まで取得して、私に譲ってくれたことになるのです。家族を愛し、その環境の全てを作り上げてくれた親父は、生涯私の心から離れることは無いのです。
ところで、直接影響を与えられたのは両親でしたが、祖父が剣道六段で、警察官として京都に赴任していたのです。そして、仙台に帰って来てからは、学校の先生として教鞭をとったのでした。そのような血統も受け継いでいるという事です。ですから、私は何かというと、祖父母と親父の様々な姿、資格、価値を収集して、私という人生の博物館に展示されるようなものです。私の直径の血筋に全体的に実を結んで、総合して展開しているとしか言いようがないのです。
そう考えると、東北学院大学の学生であるというだけの存在ではないという事がはっきりわかるのです。まして、日々の生活で財もなく、質素に暮らすことも慣れて、いるのにも関わらず、先祖が成したかった全ての内容が、博物館のような立場で、人生に展示しているという意識は、かなり強くなったのでした。