2016年4月8日(八段語録2742)
自己の成長と創造
ちょうど、大阪に来たときは、花の万博博覧会が開催されていました。思い切って、私の両親を仙台から呼んだのでした。もちろん、息子の聖義の誕生と、成長ぶりを一目見てもらおうと思っていたのです。息子が生まれ、娘達が生まれ、家庭生活が始まるようになると、よく電話が仙台から、掛かるようになってきたのです。指導者としての、鍛錬を大阪でこなした、私達の行く方向は、故郷仙台であるべきであるという、結論を夫婦で話し合っていました。大阪当時も、お袋は元気であったので、アメリカに共に、観光に出かけたりしたので、緊密さはかなり煮詰まっていました。私なり嫁と姑との関係を気にしたのです。様々配慮したのでした。突如気なお袋が、私が釣って送った鯛で、喉に骨をひっかけて、入院したというのでした。下宿屋がありましたので、弟の妻が手伝ってくれたのです。それでもお袋は、入院して言うには「長男家庭が返ってこなければならない」という事なのでした。1991年の秋口から考え初め、半年の準備期間を経ながら、重い腰をあげて、1992年の春に仙台に帰ってきたのでした。
結局感じたことは、確かに最後は私達夫婦の意志でしたが、故郷を勢いよく世間に揉まれるように歩んだのです。しかし、意識する、しないにかかわらず、結果的に故郷に戻るという方向に進んでいたという事なのです。私が動いてきた時間も、故郷に帰るように進んだし、休んでいる、時間であったとしても故郷に惹かれてしまったという事でしょう。これは、過ぎてしまえば否定できない事実になってしまったのでした。青春時代勢いよく故郷を後にしたのですが、私自身の、因縁と運勢に取り囲まれて引っ張られたという事は、もうどうしようもできないのです。故郷に帰るという意志を固めた直前になって、どちらにして帰らなければならない、自分自身であるという結論を、固めたのでした。そう心を決めると、この生命が、故郷に傾いてしまうのであり、自分の願いも、希望も理念も、故郷を中心に発想するようになってきたのです。故郷に帰るという解決点と、目的観を立てない限り、親不孝であり、これは自分も居たたまざるを、得ないという事だったのでした。
そんなに、夫婦で貯蓄もありませんでしたが、妻は広島の実家に乳飲み子の文誉を連れて里帰りして、私は聖義と順香を連れて仙台に帰ったのです。この決断は、両親を抜きにして考えられなかったのです。こんなに親不孝を地で行った私でしたが、両親は温かく、私の家庭を迎えてくれました。両親の願いという動機が契機となって、避難民のようでも、故郷でセロからやり直そうと思ったのでした。そして、指導者として培ったすべてが、故郷で花咲かせてみせるという、並々でない決意を固めていたという事です。ある意味で、故郷に帰るという動機があり、どのようにすべきであるかという、設計図を作ったという自信はあったのです。設計図の無い建物は建たないと同じように、綿密に計画を、秋口から春先まで立てたのでした。もちろん、妻と相談するという事ではなく、全て秘密裏に事を進めていきました。困難に耐えなければならず、無念さ、悔しさに耐えるだけの準備をして、故郷で闘っていくという事でした。初めに門を叩いたのは、学院大学入学という事でしたから、両親も妻もびっくり、開いた口が塞がらないという状況でした。今までの実学を学問的に整理したいという気持ちと、大学院での税理士の科目免除を狙ってという事もあったのです。