2016年3月21日(八段語録2724)
自己成長と創造

 二十七歳まで、北海道をベースに修行をしていました。それから、森周治師範の広島で修行をするようになったのです。広島安佐南区の可部という場所で、市内から大分距離がありました。同じ道場で友人になった、田原敬三氏も一緒に汗を流しました。花を見ると、香りがあります。香りを嗅ぐと、花のつぼみがしっかり閉じてから、開くのですが、その時の香りが一番かぐわしく匂うのです。ちょうど二十七歳からの茶帯の時が、私の旬の時で、最強パワーのホルモン放ち、最も充実した時期でした。鉄アレー16kgを両手に持ち、森周治師範の号令のもと、補強運動で肉体の改造をしていきました。おかげさまで、二十八歳の三月には無事昇段することができて、めでたく免許皆伝という運びに成りました。二十歳で始めた、極真空手が八年の歳月を通じて取得した黒帯という事です。ここで私が学んだ事は、森周治師範に帰属意識が強かった田原敬三氏は、本当に強くもなり、ウイリーウイリアムスに世界大会で勝利するなど、輝かしい実績を上げることができたのです。同じトレーニングをしていた私は、どちらかといえば、一匹オオカミのようなところがありましたので、それほどまでに強さの伸びは無かったという事でした。
 田原敬三氏は、森周治師範と心を合わせて大会に出場していましたから、ちょうど揮発油があるところで、マッチに火をつけたので、タンクが爆発したような勢いがあったという事です。その時に感じた心情は、師に対する姿勢で能力がいかようでも開花するという事でした。私は自営業をしながら、道場に毎日のように通って、稽古を続けました。一目ぼれの女性である千順さんの実家が広島でしたので、北広島町の八幡まで何度も足を運びました。お母さんとは仲良くなりました。それでも、とうの千順さんとの距離は、私の片思いのままに過ごしている期間という事でした。それだけに、例え良いと思われる女性が目の前に現れようが、二股・三股はで愛情を裏切り、また侵犯することのないような自己管理を徹底していた時期でもありました。この自分よがりの気持ちが良かったのではないかと、振り返って思うのでした。
 ところで、黒帯を取得するようになると、意識は全日本大会に出場するという目標と、指導者として、道場生に正しく受け入れてもらえるようにという気持ちが強くなったのでした。事業ではそれなりのスタッフと共に、仕事をするようになっていましたが、稽古では、上から目線で人を指導する事などできないという事と思ったのです。受け入れてもらえなければ、一緒に汗を流す道場生の役に立たないという思いも強かったのでした。黒帯として、道場生に口を開けて毒を飲ませることのないような人格を磨くという事が必要であると、痛烈に感じる立場になったという事でした。
 確かに、極真の強さを身に着けた時期でした。それで、その強さを前面に押していくという姿勢ではなかったのです。あくまでも、一人の指導者として、自分の生命が絶えても、道場生に信頼される生き様をするというのが、信念めいた心がけになってきたのです。私としての自己管理が、厳しくも辛くもあるような境地を目指したという事です。多くの人は、生活の糧を得るための仕事をしているように思うのですが、私の場合、生活の糧よりも、指導者として心の糧をどのように収穫して、与えていくかというのが課題の期間でした。