2016年3月13日(八段語録2716)
自己成長による創造
第一節 情欲との闘い
自己管理とは、心身を一致させ、肉体を良心に一致させる生活をすることです。それは口で言う程簡単な事ではないのです。特に、現代社会では、青少年になっていくと情欲に負けない管理が重要になってくるのです。ある道場の師範の息子が、医科大学に在学中にもかかわらず、都内の女子寮で下着を盗むという犯罪で逮捕されたのでした。積み上げてきた全てを失ってしまうのに、そのような犯罪に走るのです。それは他人ごとではないのです。犯罪であることが分かっていても、その情欲に勝てないのです。その人の事、を異常者と言ってしまえばそれまでですが、情欲に関しては、どのような形に表現されようが、誰もが存在する課題なのです。それだけに、気を緩めず、しっかり稽古をしろというのです。困難な稽古、辛い稽古をしなさいというのです。そうして初めて、情欲はコントロールすることができる問うものです。
また、この眼は、良からぬ思いで、悪いものを見ようとします。そのような時に、どうするかという事です。この口も、情欲に乗せられて食べようともするのです。その時に、拒否することができるかどうかという事です。誰も見てなければ、全部良いものとして観て、食べようとします。結局自己主張するのです。年頃になると、男として、女を思い、愛を考えます。その時に、不義なる思いで、思いを達成するとするならば、とんでもない結果になるのです。まして自分も相手も正しく、コントロールすることができなければ、皆壊れていってしまうのです。道場生はそれを知るべきです。私が青年時代に空手道の道を究めようとしている時に、劇場や映画館の前も通ろうともしませんでした。飲み屋の前も通り過ぎなかったし、決してネオン街を歩くという事を、しなかったのです。まだ私が学生時代には、学生運動が盛んでしたが、扇動するところにも通いませんでした。それは自己が自己を管理する前に失敗すると思ったからです。
もちろん、寝るのも惜しんで空手道に投入しました。それは精力が問題になると思ったからです。本部では、厳しい稽古に参加するようにしました。修養の過程であると思ったからです。自分の性格はとても敏感であると思ったからです。どんな女性からでも誘惑されると思ったものです。自分に情欲という爆弾を抱えているという事を考えていたからという事です。空手修行の道は、仏教のお坊さんのような、難行苦行に似ています。身体の喜ぶことを皆否定するのです。自分を中心に快楽に浸ろうとするものを拒否するのです。それだけに、道場で鍛えるという事は、結果的に礼節を守ろうとする人を作る事なのです。
肉体を酷使して、道場で、古をすると、情緒面、愛情面をどのようにコントロールするかという事が芽生えてきます。私が酒におぼれ、女性を追い回して、いくようにしていたならば、空手道とは何ら関係が無かったと思うのです。これは、外部からの刺激から起こるというよりは、内面での闘いなのです。目は目の闘い、鼻は鼻の闘い、口は口の闘い、そして生殖器の闘いと、局面は続くのです。このような闘いをして、何を守るかというならば、空手道を通じて修行を守るという事は当然のことながら、自分の人生を守り、家庭を守っていくという事なのです。