2016年3月12日(八段語録2715)
自己成長による創造
一、 序
自分を思う存分に発揮できないと、不意完全燃焼になってしまい、個性が委縮してしまいます。身体の動きが取れないと、気持ちも晴れないのです。それだけに、道場では、どのように身体を動かすかということから始まります。落ち着きがなければ、定位置に立つ事さえ、幼児には至難の業です。身体を動かして、挨拶ができるようになれば、本人としての道が開かれるようなものです。指導者の話を聞いて、その通りに動かす事ができる能力を磨くのです。身体が自由に動かないうちには、心が正常に働きにくいということです。つまり、心の部分を指導者が指揮を取って、鍛練するということをするのです。自分の不完全な心で身体を動かすというのではなく、指導者からのしっかりとした指示を受け取って、身体が動くようになるのが稽古ということです。未熟な幼年期には、成長が著しい結果が出るというのも、円熟した指導者から、あらゆる指示を受けて、上達するということになるからなのです。
さて、何でも、環境を管理するようになるためには、教育を受けなければならないということは至極当然なことです。道場では、身体の護身と攻撃を学びます。それも、どのような態度と姿勢で学ぶかというところまで、細かく指導を受けるのです。人と争うために、空手道を学ぶのでは決してないのです。ここに空手道の精神が発揮されるのです。道場での修練の場合、手の動き、足の動き、身体の捌き方と様々身体を管理できるようにするのです。そのような技を習熟することによって、人と人との繋がりを学ぶのです。どのような立場でどのように振舞い、どのように、人と調和するかという、ところまでに成長するのです。こうなると、個人としての自由を獲得するように思うものです。つまり、適応能力につながるのです。また、自然や人、あらゆる環境の繋ぎ手になる事ができるのであり、そればかりでなく、管理することができる能力まで発揮するのです。
そうすると、自分をスムーズに管理することができるとするならば、その延長に、世界と人類が繋がるということになるのです。自分を管理する事ができなければ、犯罪が門口まで待っているということです。あらゆる犯罪は自分を管理する事が出来ないところにあるのです。自分自身を管理するという事は、容易な事ではないのです。瞬間の誤りを回復するために、何倍の努力と、何十倍の我慢もするという気持ちを持つようになるのです。言葉は容易に思植えるのですが、実際は一生の課題であると思えるのです。実際と理想とは天地の差があるのです。例え、自己管理ができたとしても、長い人生を振り返ると、一瞬だったりします。自己を克服して、自己を管理するということがいかに難しいかを人生を通じて悟ったのでした。それでも自己管理への挑戦をあきらめたわけではないのです。
それ故に、空手道としての自己訓練が必要になってくるのは言うまでもありません。自己管理を徹底したときに、自己成長への道が広がりを見せるのです。日頃の習慣を打破して、新鮮な人生の日々を過ごそうとするならば、日々稽古は当たり前ということになります。一人、性格は違いますが、自分を克服するという事を意識する生活に入るべきです。社会が問題であるという事では決してないはずです。