2016年3月3日(八段語録2706)
指導者の礼節

 指導者は、極真の看板であるので、注意して行動すべきです。教室を任されている指導者は、極真伝統の鑑定を受けて立っているという、自覚が必要なのです。自信があって、指導者になっているのではないのです。あくまでも師範の鑑定圏内に立っているという事です。それ故に、師範に従い、絶えず指示を受けるという意識が必要なのです。そのような事を知って、師範の願いに、どのように答えていくかという事を、自覚すべきなのです。
そして、本当に指導者を目指そうとするならば、道場生を心に抱えて進むのみであり、師範から指導を受けるのであり、決して自分の立場を弁明してはいけないという事です。道場生の為に、疲れも忘れて、いつ寝たのかなというくらいの、気持ちでいるといいのです。そうすると爽快に目覚めることが出来るというものです。
 指導者は、一歩を踏み出す時にも、修業になっているかどうかという事を、振り返るべきです。自分のせいで、道場生が辞めてしまうのではないかという気持ちで、道場生に愛情をこめて、親身になりながら、課題を解決してあげるべきです。ただ過ぎ行く歳月と共に流されてはどうしようもありません。新たな日に備えて前進する指導者にならなければ、消耗品にしかならないのです。
そのような意味では、開拓者として、困難な環境を突破して、明日へと向かう理想を準備して、進まなければならないという事です。即座に思いつくのですが、責任を負った指導者は、絶えず戦闘と闘争という事です。極真精神という理論と信念を持っているのです。この理念や信念が及ばないとするならば、自分のものにすることができず、誰かに奪われる運命に陥ってしまうという事です。稽古によって実践して作った基盤、根っこをしっかり張って、誰にも奪われないという気持抱くべきです。
ところで、指導者として、どのような心を持たなければならないかという事です。責任を生命に変えるという信念を持たなければならないのです。そのようになれば、あらゆる解決の糸口をつかむことが出来るというものです。今まで経験しているのですが、頑張った分以上の報いを、受けているという事を実感してしまうのです。中には、そんなに頑張らなくていいという人もいます。一生の間、いやになるほど食べて、寝て、笑って、歌って、踊って生きたとしましょう。結局、最後は誰もが墓に入るだけです。しかし、多くの人の為に生きた人は、その墓に花が手向けられ続けるという事です。極真会館の指導者になるという事は、そんなに生易しくありません。花を手向けられる人を目指すのです。           
そのように、指導者の礼節があるのです。核心要因は、夜を徹して育てなければならないのです。その道場生にとって、一生忘れることができない思い出の、縁を持つのです。そうしなければ、次に立つ指導者が、出てくるはずはないのです。次の指導者に対しては、極真の伝統によっている自分をあからさまにし、酔って話していました。それが相手に伝わったという事です。もちろん、夜を徹して話します。それも楽しく過ごすようにするのです。それでも、弟子は、苦痛に思うものです。例え、もしその弟子が、去ってしまったとしても、同じような弟子が現れるのです。それだから、指導者は道場生に生命を掛けるのです。