2016年3月2日(八段語録2705)
第四章礼節
第三節道場に対する正しい認識


 道場が目指すべき目標は、道場生一人一人が、理想と夢を目指すことのできる、人材を育成することです。社会に適応し、改革し、社会をより良い方向に導く、指導者を育成するという事です。第一に、一人一人が、世代を担う、成熟した人材を育成するというところなのです。第二に、過去・現在・未来をしっかり見極めて、確かに修練した人格で、貢献しようとする、人材の育成というところなのです。第三に、道場生同士が、相互扶助の関係を持って、日々の生活に力を補給するところなのです。第四に、道場生が世界への門戸を開放しようとするのでもあります。そのために、家族を大切にするという、意識を道場で確立し、模擬訓練をするのです。道場生が立つべき位置は、本人としては、自分の人生の主人公でありますから、中心に立たなければならないはずです。中心の位置は、二つあるはずはないのです。前後左右・東西南北、前後と三百六十度回転する中での中心になるという事です。中心が二つになるようでは、滅びるだけです。特に善と悪の二軸であると最悪です。
 さて、間違いを犯した人が再び、社会に復帰するという事は、並大抵のことではないのです。罪を何回も犯せば犯すほど、どうしようもなくなってしまいます。それは、心が善悪二つの軸に分裂しているからです。確固たる信念が薄れてしまっているのです。罪を犯すという事は、それだけで、運勢を失ってしまうのです。それだから、一つの確固たる中心を作る作業をするというところに、道場の意義があるのです。道場は親の為に通うわけではないのです。そのような姿勢では、極真空手の修業に精進ことはできないのです。誰の為に道場に通うとするならば、家族を大切にする為に、私の修練として道場に通うのです。道場は修練の場ですから、自分が引き上げられるはずです。それ故に、軸を一つにして、道場が家庭をより良きものとして、家法を結実させ、より良き人格の認定を、受けるように訓練するところという事です。
ところで、極真空手は、身体が恵まれているから稽古できるというのでしょうか。とんでもないことです。道場は家庭の延長として捉えるのです。道場は、お爺さん、お婆さん、お父さん、お母さんがいなければならないし、若い青年も少年も幼児も必要です。青年だけいるようでは、ヤンキー化して荒廃してしまいます。理由は、年上の人に侍ることが出来なければならないからです。お爺さんに、お婆さんに、お父さんに、お母さんに、自分と息子、娘までだとすると四段階あるのです。この運命から外れることができないのが、人生なのです。このように、道場での訓練を経て、家庭を大切にするという意識を持つならば、礼節がしっかり確立するという事です。そうでなければ、小間使いにしかならないという事です。人格者になるためには、組織的な訓練は必要です。集団的な関係を通過しなければならないという事です。この関係をしっかり認識して、全体的な理念や制度に通じることが出来なければならないのです。
人が好むものだけに、愛情を注ぐようで礼節守るという事にはならないはずです。人が最も好むものは、赤ちゃんであり、最も嫌がるのは、先の短いお爺さんやお婆さんです。これは極と極です。このような極と極を、包括していくような、道場での礼節を身に着けなければならないという事です。これは年齢が高くなればなるほど経験することなのです。