2016年3月1日(八段語録2704)
第四章礼節
第二節 心構えと態度
礼節は妄想的で観念的ではないのです。また抽象的でもないのです。生活の中で必要不可欠なのです。人々が共同的な生活をする上で、理想と夢を持つような生活をすることのできるキーワードなのです。この礼節を心身ともに表現してこそ、不条理な世界から、逃れるという道が開けるというものです。このような礼節というものを、どのように受け入れることができるかという事です。道場だけでの礼節でいいのでしょうか。そうではないのです。空気よりも、切迫した気持ちを養うのです。水よりも、必要性を感じさせるのです。食事よりも大切であるという事を、感じさせなければならないという事です。
道場生が、礼節を守って、稽古をして空手を習うのは何のためでしょうか。極端ですが、傷つかず、排斥されず、引き裂かれない為なのです。稽古を一生懸命に行い、道場に通っている人に対しては、誰も悪に引きずり込もうともしませんし、干渉されることもありません。いじめるような人達も、後退せざるを得ないという事です。また、何故、礼節を身に着けるかというならば、それは多くの良心のある人達に、信頼されるからという事です。このような礼節という、伝統を設定していくという事が、人生にとって有意義であるのです。それ故に、心と生活で習得しなければならないという事です。礼節は、磨くのです。ただ教えられているだけではだめです。しっかりとして真心で、礼節尽くし、信頼され、多くの恩恵を受けるところまで、熟練しなければならないという事です。
ところで、このような礼節を、法度と考えていいのではないかと思うのです。そむけば、罰せられるような気持ちを持つべきです。生活の中で、礼節を守ることが出来なければならないのです。この事を意識して、より良い、生活を心がけるという事です。礼節をベースに判別できる人は、悪人にはなれないのです。そのような人には同化されないのです。家庭に落ち着かない、不幸な青年男女が多い原因はどこにあるのでしょうか。礼節という法度が喪失されているからなのです。守ろうとする意識が、日常で失われているのです。ですから道場という稽古で見て、聞いて、感じるすべてを、家庭や学校・地域に持っていくという事です。そのような態度と姿勢は、決してその個人を滅ぼさないし、家庭は守られるという事です。人が淪落しようにも落ちることができないのです。そのような姿勢と態度を身に着けるのです。
最後に残るのは何でしょうか。何度も言うようですが、稽古を通じて、良き家庭を維持するという事です。家庭が安定しているとするならば、落ちようとしても落ちえないという事です。それが、生活舞台と連結され、世界へと飛躍する人生であるとするならば、これ以上素晴らしいことは無いという事です。勝利的に人生を生きるために、礼節を守るという信念を持たなければならないという事です。それだけでなく、心構えと態度を持って生きなければならないのです。もう一度言うのですが、礼節を守らない人生は、破たんであり、妄想の中で生きているのと一緒という事です。礼節を守らないという生活の形態、生活の法度は決して無いのです。