2016年2月24日(八段語録2699)
極真空手での教育
一極真空手を習う理由


 道場生は、指導者が知っているすべての内容を継承することによって、自分のものにするという事です。その為に、指導者は、極めた極意を、全て教えてあげて、道場生を素晴らしい存在にするのです。道場生が有能になるためには、稽古をして、空手道という分野において、自分の価値を高めるという事です。何故極真空手を習うかというと、空手だけで完結するだけではないからです。必ず、社会貢献が伴うということなのです。その事によって、未来が保証されるのです。若い時に、遊びたいときに遊ばずに、努力を重ねた人は、年齢を重ねるごとに、光を放つのです。稽古を続けるという事は、その時は大変かもしれませんが、未来があるのです。未来の為に備えるという事は、より価値があるのです。今だけの為に生きる人は、今日が終われば行く道が無くなるのです。しかし、未来の為に稽古をする人は、泣きながらでも前進するのです。そして、価値を見出すのです。価値があるという事は、深さと高さと広さができるという事です。

二極真空手を学ぶ目的

 熱心に稽古をして、立派な人になるという事が大前提です。ちょうど、農業をする人が種をまくのと同じです。結局秋に収穫できるという目的に向かって種を蒔くのです。しかし、自分の為だけに稽古をして、立派になろうとすると、その人は、それだけの人とでしかないのです。結局は、何れは奪われてぶち壊されるだけです。社会貢献という事を意識しながら稽古をして、役立つ人になるという心構えが必要であるというのです。自分の事だけ考えて、稽古をしていけば、それしか考えららない人間になるだけです。ところで、稽古が好きかと問われたら、私とて好きではないと、答えてしまいます。ちょうど、幼稚園の子供が、小学校へ通う児童を見たときに、「小学校へ行きたい」とランドセルを布団に入れて、喜んで跳ねるのです。幼稚園の子供が、小学校が何であるか分からないから嬉しいと思うのです。全部皆分かれば、そのようには喜ばないのです。そして、幼稚園の子供が、熱心に小学校へ通えば、それで済む話です。ただ熱心にするのは、稽古に似ています。分からなくて熱心にするのが、より恵みを受けるという事です。

三稽古をさせようとする本当の意味

 稽古を好きだとしても休んでいるとしたら、天地の違いが出てくるのです。ちょうど何かが盗まれるのと同じなのです。稽古が出来なくて、時間を無駄に過ごすという事は、事故に遭うのと同じだという事です。道場生を立派にさせ、より輝かせるためには、本人が自分で努力して、苦労しようとする道がなければ、ならないという事です。そうすることによって、栄光の位置に立ち、より良い人生の起源になるのです。それは、指導者が持っている全てを道場生に相続していこうとすることなのです。それを理解して、稽古に励んで欲しいのです。そうすれば、感謝することはあれ、恨むことなど無いという事です。