2016年2月22日(八段語録2697)
第三章振り返って
第一節幼年時代


 私は、1953年に生まれました。サンフランシスコ条約が二年前に締結されて、日本国としての独立を許されて間がないという時でした。朝鮮動乱が終結して、日本は軍需景気に沸き始めたころです。今の平成一丁目に産声を上げたのでした。親父は洋服の販売をして、母は洋裁をして生計を立てていたのです。両親は働き詰めでした。母が機転を利かせて、親父を太平住宅に、社員として入社させ、安定した生活にしたのです。すぐに苦竹の今の居住地に家を新築したのでした。母方の実家は裕福で、泉ヶ岳の麓から家の材木を切り出して建てたのです。両親は働き者で、質素倹約、そして、財産を築くのが趣味でした。
友達にも恵まれ、ビー玉やバッタという遊び道具で楽しんでいました。ガキ大将というよりは、みんなの面倒みるのが、性に合っていました。日本の高度成長と共に、両親は、生活を安定させていました。両親と一緒に海に行けば、アサリ貝を採り、田圃ではイナゴを採って、山では山菜採りと、実益を兼ねて自然を満喫したのでした。台所も、プロパンガスが入ったり、洗濯機が入ったり、テレビも見ることが出来るようになっていました。
 また、親父の実家は利府の菅谷という所で、不動尊と道安寺で囲まれていました。親父の実家では、お寺で遊んでいました。驚いたことに、お寺の住職が義道(ぎどう)で私の名前が義道(よしみち)ですから、不思議な縁を感じるのです。親父の親戚に、住職の修行をした人が多い事を聞いたりしていました。母方の祖父は剣道六段の腕前で、警察官や学校の先生をしていたと聞くのです。そのような血筋という事で、精神面を追求するようになるし、柔道にも打ち込むようにもなっていったのです。勉強も意識して努力するようになっていました。それでも、一生懸命という精神は、柔道によって、鍛え上げられるようになったのです。人に教えられるより、自分で追求するという姿勢が、この頃の意識でした。能率は上がらない勉強法でしたが、今でもその姿勢は変わらないのですから、役立っているという事です。
 両親の実家が田舎でしたので、良く田舎へ行きました。季節が変わり、美しい鳥が飛んでくるのを見つけると、木と木の間に霞網を張って、捕まえては楽しみました。私の家に帰っても、イチジクの木が二本もあって、たくさんのイチジクを収穫していました。そのような自然を通して情緒豊かな人柄を身に着けていったように思うのです。また、田舎では、祖父と一緒に、川魚を釣りに行くのです。滝の中段には、籠のようなものを仕掛けて、ウナギも取ったのでした。もちろん、ドラム缶で五右衛門風呂をこしらえて、別荘ならぬ小屋を作ったりしたのです。
また、雪が降ったら、キツネ狩りをするのです。足跡を追いかけて、罠を作って、取り押さえるのでした。祖父は自慢げに、首にマフラーのように巻いていました。そのような意味では、自然に対する好奇心がありすぎるくらいの、幼少年時代を過ごしたという事です。世界中を回ってきた今も、故郷の景色と思い出は、忘れることが出来ないのです。 どんな観光名所でも、私が過ごした故郷の自然にかなう名所には見えないのです。そのような自然豊かな幼少年時代を送らせて頂いた両親に感謝をしているのです。