2016年2月15日(八段語録2689)
第一節 極真空手の存在
一 極真空手の実際


 極真が提唱している内容は、フルコンタクトによる武士道です。そして、世界に提唱したフルコンタクト武道であることは、この半世紀で実証してきたのです。武士道に関して、どの団体よりも、はっきりと実践で教えるのです。間違いなく、稽古を積み上げて体験させることができるのです。理論的な稽古内容と、合理的な指導を通じて、示すことができるのです。架空の理論ではなく、実践と実体で理解を示すことができるのです。また、単なる実践ではなく、武道精神としても、影響力を与えるのです。その思想というのは、人生の問題、個人の問題に及ぶのです。そして、道場生に対して、人間は何かという問題を考える時に、「家庭」「対話」「自然」という思想で固めているのです。武士道を土台として、自分自身の人生観が設定され、家庭がどのように進み、どのような家族関係を営み、自然との調和をどのようにするかという方向性を示すのです。極真空手は、敢えて一般論からという事ではなく、実践という入り口から、武士道を追求するという事なのです。妄想、虚構を示すのではなく、実践空手というフルコンタクトの選択なのです。ところで、人生を生きる上で数限りない、無限なアプローチがあります。しかし、敢えて極真という、狭い入口から解決しようとするのです。それ故に、極真の稽古を体験せずして、何事も解決することができないという、スタンスを取るのです。というのも、いくら正しい思想理念を提示したとしても、絶えず変動する世界情勢に巻き込まれて、何も信念めいたものに至らないからです。それだけに、極真の稽古をした道場生にしか、分からないように論じるのです。
二稽古をすれば自然に悟る
 極真空手で稽古をするならば、心で悟るようになるのです。つまり、個人として確立し、家庭をなして、自然を愛するという、当たり前の生き方を、稽古する中で悟るのです。それは一本の木と同じで、説明する必要はないのです。説明して分かるとするならば、極真の稽古など、必要はないのです。説明の過程を、理屈で何であるかと、説明するのではなく、実践なのです。稽古で汗を流して、継続していくうちに自然に分かるのです。胎児はお腹の中で、乳の飲み方を、教えてもらって生まれてくるのでしょうか。そんなことは無いはずです。赤ちゃんの、目の前に母の乳房があるから、吸うようになっているという事です。そのような意味では、稽古は自動的に解決し、自動的に行くべき、方向性を知るようになっていると、断言するのです。それだから、稽古をしていない、父兄が、指導員を押しのけて、自分の子供であったとしても、道場生にコーチをすることなどは、言語道断という事です。もし、子供に指導したいとするならば、父兄本人も、一緒になって稽古をすべきです。それもしないで、大会で黄色い声を出して、叫ぶなどあり得ない光景という事です。かつて空手をやっていたのだから、指導できるというものでもないのです。この瞬間、一緒になって、汗を流さない限り、極真空手の実践と、思想と理念の方向性が見えてこないという事です。