2016年2月11日(八段語録2685)
稽古は未来志向の架け橋

 道場で稽古に没頭すると、自分に対して、自信を持つことができるようになるのです。稽古をしていく途中に、爽快になっていくことを感じるのです。五感で感じるのが、爽快さを越えて、快感を抱けるのです。日常生活で、味わったことのない感覚なのです。道場生が身近に得ることができる、爽快になる領域が、稽古にはあるのです。このような感性を味わって来たのですから、稽古を離れるわけにはいかなくなるのです。
気持ちがもやもやしてきたときなどは、稽古に熱中することが一番なのです。これが私の稽古を継続する理由の一つなのです。稽古は一人ではしないのです。道場生と共に、一緒に稽古をすることで、爽快な一日を体験することができるのです。何物にも交換することができないほどの高揚感を味わることができるのです。稽古でもがき、悩み、苦しむ中で、その日、わずかでも悟りを得ることができるのです。
 稽古をして、爽快な気持ちになっていることに、誰が否定する事ができるでしょうか。道場生にしかわからない、感動があるのです。それを求めようとして、今日も稽古をする道場生を眺めるのは、実に爽快なものです。人としての頭脳、心、あるいは能力を、思いのままに、稽古では使います。武道精神の思考方法に徐々に近づく訓練を稽古はしてくれるのです。武道精神を果てしなく、与えてくれる稽古は、人としての生き様としての、配慮を感じるのです。それが、道場生の新たなる方向性の、一助になるのです。これが道場生の希望になればと思うのです。
ところで、私もずっと稽古をしてきたのですが、理想は高かったのでした。何事も死にもの狂いに立ち向かったものです。その自身の根拠に、稽古を続けてきたという事でした。理想は高かったのですが、現実は、打ちのめされることばかりです。挫折に陥った時に、人間性が悪化していくことを、稽古は防いでくれました。私は、道場生に、稽古を続けることを主張するのは、自分の経験からという事もあります。振り返って考えると、完全なものを求めるがゆえに、挫折は、絶えずつきものでした。それでも妥協することなく、前進することができたのは、稽古のお陰という事なのです。
今の私の発想は、稽古を続けてきたために、過去は振り向かない姿勢になっていました。どんなに過去が貴重であったり、価値があったりしても、これから来る未来とは、比較にならないという気持ちを持つのです。もう過ぎ去った過去は投げ捨ててしまっているのです。良く老人は昔話の栄光に思いを寄せるというのですが、私の場合、新しい事を見出すのに必死なのです。目標を目指して進む青年なのです。このような発想の回路を持つ、生き様ができたのは、稽古をし続けた、後天的な天性のようなものです。稽古は未来の宝を運んでくれるのです。
 今日は、妻とデートでした。秋保温泉に行ってきました。温泉に入って、一緒に食事をして、話に花を咲かせました。妻との会話は楽しいのです。帰りは、「おはぎ」を買って、車の中で、ほおばり、寒空の中でも春の日差しを浴びながら、帰路に就きました。三世代同居の我家です。色々な事が起きますが、楽しい限りです。未来志向の原点は稽古であると実感させられています。