2016年2月10日(八段語録2684)
若い日の高い理想

 極真空手に青年の若き日に出会って、良かったという気持ちが湧いてきます。何故ならば、若き日の理想は最高の理想を渇望したからなのです。決して、現実的な低い理想など求めないのです。いかに世の中の素晴らしいという、広告塔にも乗らないのです。その高価なものでも踏み越えていくことができる最高の理想を持ったのです。還暦を過ぎた今でも、青春時代と同じように高い理想を求めているのです。それも、今でも死にもの狂いに、理想に立ち向かうのです。世の中の波に飲まれ、それなりに妥協するような人生を送ると、高い理想を言う事は、なかなか難しいのです。考えてみてください。理想とは高すぎるという事があるのでしょうか。保護司として、犯罪に陥った人と面接するのですが、その人が良心に反して、悪事を行ったとするならば、私は、真っ先に、「良心はどうなっているのですか」と聞くのです。その時に対象者が語るには、「申し訳なかった」と悔い改めるのです。そのような事例に出くわすたびに、人は間違いなく良心を持っていて、性善説という主張なのだという主張をするのです。
 さて、良心という存在は、正しいという事の、一点に向かって突進するのです。そうでないと心が痛むようになっているのです。私の青春時代に映った極真会館は高根の花でした。その花を自分が取得しようと思って、挫折にもめげず、追い求めたのでした。私とて、比較能力がないわけではないのです。それでも、「一番」であると求める姿勢を、変化することなく、追い求めたのでした。そんな人生を送る事が出来たのは、青春時代に極真空手に出会ったからです。純粋に理想を追い求めたのであり、最高の理想として受け入れたのでした。振り返る事もなく、最高の理想を進行形で求めようとしている時、心身ともに自動的に制御されるのです。そんな思い出を回想してしまうのです。
 ところで、生まれつきとは言いませんが、小中学校の時、高校の時と柔道をしてきたので、武道は身についていたのです。その土台の上に、極真会館の理想ですから、実にグッとタイミングで良かったのです。最高の基準に立って歩んだという誇りを抱いているのです。何故か、生まれつき、極真空手と出会うように仕組まれている人生とも思えるようでした。それだけに、どんなつらい時でも、前進することができました。私の精神的欲求する次元で、確信を持って進むことができたという事でしょう。理想が高かったせいか、一度も辞めようという気持ちにはならなかったのでした。人生で勝利者になる道が、世間ではあるようですが、そんなことは私にはお構いなく、極真を通じて、幸福に通じる道を選択したと自負しているのです。この極真の道を絶え間なく経験したものとしては、目的に向かって、何も望まない程、充実した人生を送らせて頂いたという事です。
 私の青年の時の野心は、実現の一途を辿っているのです。決して、物質の為に金儲けする人生ではなかったのです。良心の欲するままに、高い理想を追い求めることができた青春時代の純粋なレベルに感謝という事です。そして今も普遍的に理想を追い求めることができる立場に感謝という事です。まず、私自身が極真の理想と関係を持ったことが、完全理想の始まりであると思うのです。誰かが理想の人となる事を望まず、私が理想の人を目指すことができたという事は、この極真に出会ったという事の誇りなのです。