2016年2月9日(八段語録2683)
有段者のレベル

 極真会館宮城県本部で有段者の資格を取得した道場は、二十年の歳月の中で、四〇名に登ります。反旗を翻した有段者としての道場生もいました。そこで、現在修業している有段者の道場生は、その中でも二十名なのです。そして、実際に道場運営に携わっている、道場生となると少なくなります。しかし、代表師範である私と共に歩んでくれている弟子が、極真会館の未来を背負っている、有段者の道場生という事になります。この少ない有段者に何百人もの道場生が、指導を受けているのです。故郷の仙台に帰って空手指導に費やして、二十五年ですから、四半世紀が過ぎたことになります。一人ぼっちから始めましたので、未来はどうなるか予測がつかなかったものです。そして、こうして期間が過ぎれば、道場生の大家族を形成しているのです。
 正直、有段者でさえ、極真の道を共に歩むことは難しいのです。それでも、天運の元に、富士山の頂上の火口は形成されたという事です。そして、その有段者の中でも、柱の中の柱の人材が育成されたのです。有段者を束ね、富士山の火口から、末広がりのように、無限に広がっていく、道場の未来が輝きを増しているのです。てっぺんが決定したものですから、有段者になる道は、現場の菅野師範を中心として、当然厳しいチェックが入ります。一緒に付いて、来られないような有段者に、しない為に吟味をするのです。そのために、本物だけに昇級・昇段の道を開いているという事なのです。その一つの例は、茶帯クラスの1・2級は、指導クラスを持たなければならないというような厳しいレベルなのです。
ところで、その指導クラスを持つという事は、自分勝手に指導するという事にはならないのです。第一に、その指導員が極真精神に根差した人格を、維持し続けているかというかという事が問われます。そして教室を任されて、ある一定の期間、成長している姿を確認するのです。第二に、どれだけ、極真会館宮城県本部に帰属しているかという事が問われます。ここで、試練として立ちはばかるのは、押忍という精神なのです。その指示に従えないという事で、道を外した人がおりました。押忍の精神で、一致団結の力を見るという期間があるのです。黒帯は決して、薄利多売は決してしないという伝統になってきたのです。空手の技術は高いが、この人間関係の指示に従えないというところに、脱落があるのです。
 このような二つの難題を解決したもののみが、有段者としての資格を与えられるという事なのです。決して遊び半分ではないという事です。「ラクダが針の穴を通る」よりも難しいという事です。これは、二十五年の歳月をかけて培ってきた伝統に展開してきたのです。理論的にも十分に納得することなのです。当然、1・2級クラスの指導員には、「どうして有段者になることができないのだろう。一生懸命にやっているのに」という不満があると思いますが、生涯極真の道を行くという前提で有段者にしているという事なのです。もちろん、その内容を決定するのは菅野師範なのです。
 何を言いたいかというと、極真会館宮城県本部を、背負って立つという自覚無くして、有段者の道はないという事なのです。そのようなレベルの高い極真を目指しているという言事をはっきり覚えて欲しいという事です。