2016年2月8日(八段語録2682)
稽古の意味合い

 今日は朝からトレーニングです。自分の心を奮い立たせるために、肉体の鍛錬をして、生活習慣のマンネリ化防止というところです。極真空手の修業の道を、究めようとする心を維持し、開拓するのです。その意味で、心を強くしなければならないという事です。私のトレーニングの第一の目標は、極真の道を決して外れないという事です。さらに第二の目標は、極真魂を中心として、肉体の管理をするのです。ただの習慣化された生活には、満足することができないのです。そのために肉体の錬磨は必要になってくるのです。
肉体の欲求通り行動したならば、単なるおバカさんにしかならないのです。これこそ極真精神の言わんとするところだと思うのです。トレーニングは肉体を維持し強化するという目的はありますが、もう一つの目標は、肉体を消耗させるという事です。何故そうするのかというならば、極真の道を行かんとする決意の、表れという事になります。私の身体を自分の心だけに、占領させたいという思いなのです。心は弱いのです。
私には、肉体の欲求に負けてはならないという、気持ちがあるのです。かつての先輩師範は、この誘惑に負けてしまった、人達が多かったのです。いつの間にか、平気で大会会場に愛人を引き連れて参加していた姿がありました。この肉体の欲求は闘わなければならない課題であると、私は、最初から決めているのです。
肉体の欲求は、限りがありません。いつしか小銭ができると、よからぬ思いを行動に移すのです。極真の歴史は、まだ半世紀余りなのです。それなのに、淪落の道を平気で転げ落ちていく先輩を見るにつけ、人間は弱いと思うのでした。このような生き方には理想は無いのです。このような先輩師範は青少年教育をする資格はないのです。ある意味で、理想を破壊し、決して極真精神とは関係なくなるのです。女性におぼれ、酒におぼれ、末路は哀れです。
 ところで、私のトレーニングは、先輩師範の過ちを犯してはならないという意識が強いのです。酒に近寄らず、女性に溺れずという大原則を立てているのです。トレーニングの意味合いは、稽古という側面もありますが、肉体をいじめるという逆説的な意味合いが強いのです。トレーニングに集中することによって、酒に近寄らず、女性に溺れずという戒めを自然に行うようになっているのです。もちろん、代表師範ですから、位置的には高くなりますが、その位置に対しても、傲慢にならず、いつも極真精神の最前線に立とうとするのです。もう四十数年の極真歴を誇るのですから、継続するに為に、その精神を保つという努力を日々しているという事です。
 トレーニングの意味合いを表現していますが、私にとって、稽古は必要不可欠なのです。私独自の道を発展させようとは思わないのです。先輩師範の過ちとは無縁な修業をしていきたいのです。私に続く道場生に、手本とならなければならないという意識が強いのです。武道精神の根本は、このようなところにあるのだと思うのです。そうでなければ、青少年教育などできるはずはないのです。道場生の姿が自分の鏡であると思って、指導していきたいと思うのでした。発想することが、余計な邪念にならないように、道を究めようとするのです。そして、何度も表現しますが、極真精神の公人としての決意をトレーニングで固めていくという事です。