2016年2月7日(八段語録2681)
理想の概念

 ちょっと単純に理想を分析してみましょう。「理」という漢字は、偏が「王」でつくりが「里」です。また、想は偏が「木」でつくりが「目」そして、下に心があるのです。つまり、「理」で王の里を意味し、「想」で木を心で見るという事に成ります。このような理解の上に立って、一つの目的の為に、私達の里を発展させていったときに、理想が存在する可能性があるという事なのだと思うのです。
中国の人な何ゆえに、この漢字を見出したか分かりませんが、分析しただけで、面白い事に気が付きます。単純に思う事は、一人で理想を、成し遂げられるものではないという事でしょう。私達が活動し、目標を持って頑張るときに、一つの目的が存在し、その時に理想が存在し、芽生え始めるという事です。そのような意味では、決して自己中心になることなく、木(目標)を心でしっかり見つめ、王の里を作っていくという広大な建設に向かっていくという事です。
 さて、一人一人の個人は、間違いなく個別な個性を持っています。性格も色々です。外面性に重きを置く人や、内面性に特別な視点を置く人もいます。とても弱い人もいれば、強い人もいます。理想とは、その両極端な個性まで包容してしまうという事でしょう。もちろん、傲慢な人もいれば、謙虚な人もいるのです。そのすべての、中心に立つという事であると思うのです。道場の指導者としての要件は、両極端な多くの人を包容することができ、その中心に立つことができる人格者を育てようとすることです。すべての人を包み込み、指導者として雄々しく、立つことができる人なのです。当たり前に、武士道とは、民百姓の為に役立つ魂を兼ね備えようとする道です。自分自身だけでなく、周りの人を心配する人です。当然、過去、現在、未来そして世界に関心を持たなければならないという事です。
 ところで、武士道を追求する私達の課題は、理想を前面に押し出す前に、心と体の間の一致と調和を見出して、初めて理想に向かっていくことができるという事です。心と体が一体化した生活ができるかというのが、武道の基本的発想です。これが、武士道を歩む人間としての欲望という事なのです。その為に、道場があるのです。道場では強い心を持ち、強い肉体を鍛えあげ、強い人間になるのです。ここから一つの必然的な結論が、導き出されるという事です。結論的に言うならば、心身一体の時に、理想を求めることができる、資格を得ることができるという事です。
 考えてみてください。肉体には時間的制約がありますが、精神には時間的制約はないのです。限りある部分と、伊限りない部分が一致するときに、理想が生まれるという事かもしれません。人間はそのように存在しているのです。ですから、理想を追う事ができる資格を、道場で身に着けてくれるように願うのです。私は、技を覚えるより、相手に勝つより、この心身一体の世界を追い求めてきました。その世界の彷徨は、今でも続いているのです。その追求こそ、理想を追い求めていくことができる自信になるのです。私は今でも倒れていません。これからも踏ん張り続けるのです。誰にも追いつくことができない、「王の里」に向かって、心で木(目標)を目で観て頑張り続けようと思うのです。