2016年2月6日(八段語録2680)
道場生は希望を抱かなければならない

 希望を抱かない道場生は、道場に必要ありません。そこで、その希望とは一体何かと考ええなければなりません。自分の能力を発揮して、野球において言うならば、スターになる事が、私の希望という人がいるかもしれません。しかし、逮捕された清原容疑者に問いかけるまでもなく、それが本当のあなたの希望であったのかという事です。このような事件を起こした清原容疑者に真剣に問うならば、本当に確信して希望を持ったという事にはならなかったわけです。野球界でスターという反面、欠如していたことが多いのです。
そして、清原容疑者が希望を達成した時に、再び新しい希望に向けて出発しなければならなかったのです。野球界で成功し、引退という憂き目にあった時に、これは自分がずっと求めていた希望ではないという事を、思い知らせられたに違いないのです。このようにスーパースターになったとしても、「本当に満足している」と感じてはいなかったという事です。清原容疑者は、現実に引退という事に、留まることなく、それを乗り越えていこうと、もがいているうちに、覚せい剤に手を出したという事でしょう。
 そう考えると、人には究極の希望があるはずであると思うのです。例え一生懸命に頑張ったとしても、希望を達成した時に、「もう満足しました」という事は無いのです。更に高い希望を目指さなければならなくなるのです。それが常に変わらない真実なのです。ここで、武道精神を振り返って欲しいのです。例えその希望を成し遂げたとしても、もし、その人が、人格を磨こうとしていなければ、どんな希望も不幸に陥れられるという事です。
 かえって、世間にもてはやされて、自分自身を見失った結果が、清原容疑者かもしれないのです。世間にもてはやされたとしても、どれほどの幸福感を感じたのでしょうか。それは、本当の希望にはならなかったのです。世間がどう評価しようが、本当の希望は、自分自身から出発しなければならなかったのです。自分自身の腹の底から出発して、腹の底が中心となって、世間に出発しなければならないという事です。そのように、希望を持つならば、不滅であり、そして不変な希望を持つ道場生像になっていたはずです。極真の稽古は、道場生に不変な人間性と人格を築き上げることに必死なのです。どのように厳しい状況でも、最も頼れる人物像を目指すのです。そして、そこから、世界と連結される希望を永遠に持つ続け、達成するという事です。
 したがって、希望を求める理想的な道場生像は、多くの人を抱擁することのできる能力を持ち、不滅の個性を求めることです。そうすれば、希望を持ち続けて、前進することに疲れるという事は無いのです。例え、目標を達成したとしても、新たな航海に希望を持って前進することができる、不変な人格を形成するという事です。道場生は、そのような人間性を追求しなければならないのです。道場生は、希望を求める以前に、人間自体を考えなければならないという事です。希望を持って達成するという事は、すぐに達成することのできるものではないにせよ、希望を求めていくに相応しい人格を形成するという、努力をしなければならないという事です。この点を強調しているのが、極真会館手塚グループであり、その姿勢を最後まで貫いて希望を追い求めようとするのです。