2016年2月5日(八段語録2679)
空手の役立て方

 極真空手を続けるという事の意味を見出しましょう。この意味を見出せなくて、途中でやめてしまう子供達もいます。それで、道場生が、自分でそれなりに、考えてみるのも良い事だと思って表現します。そこで、道場生として、何で極真空手を続けるのかという事をいつも自分に問いかけて、その結果、信念を持てるようにすべきです。そうしないと、ただ、道場に通っているだけで、しまいには、自己矛盾に陥ってしまう事になります。それで、私として、考ええられることは、自分自身が自分の目的を果たすための、推進力にすべきという事です。自分の目標を果たすための土台というのが発想になるべきです。
それで、個々で無く、道場生全体に当てはまる事といえば、良い人生を送るという事です。それで、その因子を述べるとするならば、良い家庭を作るという事も選択にあると思うのです。良い夫婦、良い親子という関係を築いていくという事です。私の人生は、理想的な男性を目指し、恋をして理想の家庭を成すという事にあったように思うのです。
 私の人生を考えれば、男性として年老いて死んでいくだけと考えたとしたならば、空しくなってしまいます。実際年齢が高くなっている私であるから感じるのかもしれません。やはり、私としてもそれなりに成長して、妻と情を通して、愛の巣を作っていくという所にあると思うのです。私としては、一人で生きるという事には耐えがたいように思います。喜びを一人で感じるという芸当を持っていないのです。どんなにハイテク化が進んだとしても、機械と妻を代えることは出来ないと思うのです。もちろん、お金でも、権力でも、知識で持っても、代える事が出来ないのです。
 ところで、還暦を過ぎて、感じることは、もう家庭を離れることは出来ないという有様なのです。妻と出会って四十年の間、恋をして愛情を結んで、その愛情の味を味わった人として、離れる事などできないという事です。ちょうど、蜂が蜜を味わったと同じように思うのです。蜜を吸っている蜂のお尻を掴んで引っ張るとお尻が抜けても、その蜂は蜜から口を離さないのです。そのような味わいを、私は味わってしまったという事です。家庭を離れたとしても、すぐに家庭に戻ってしまう程、飼いならされてしまったという事でしょう。それでいて、喜んでいるのです。
 このようなバカ話をしながら、何を言いたいかというならば、存在様相はどうあれ、人としての道のメジャーを身に着けて、間違いのない人生を歩めるように、しっかり道場に通いなさいという事です。そして、只のサークルの集まりではなく、そこに先生がいるし、先輩がいるのです。その先に歩んだ人から一生懸命学ぶことによって、大切なものを、時間をかけて学ぶことができるという事です。
 娘が新しい住居を構えて、五日も経ってしまいました。家に帰ってこない娘になったという事です。親として寂しさをひた隠しにして、妻と夜二人で、寂しく話したりしていました。もう独立していこうとする娘を引き留めてはいけないと思うのです。父親としての我慢という事です。これも覚悟の事とはいえ、寂しいという事に他なりません。それだけに、妻との会話が増えるという事でしょう。息子と娘を思いながら、目に浮かぶようです。