2016年2月3日(八段語録2677)
自然・スター選手の堕落

 不思議です。私は大人になってから、自然を見て段々と、感動するようになってきたのです。子供時代は、当たり前だったのです。泉ヶ岳の麓の自然の昆虫も付きも星も、虫の鳴き声も当たり前の日常生活だったように思うのです。それが、国語の時間とか、小説とか、さまざまな媒介を通じて、自然の楽しみ方を習得するようになったのです。教育を受けた為に、鳥のさえずりでも、お腹が空いているなとか、危険なのかなとか、互いに愛する雄・雌の求愛なのかとか、感じることができるようになったのでした。そういう意味では、学んだ知識が無尽蔵に陳列されている、自然を分析できるようになったのでした。学校教育で、自然が最高の芸術であるという事を学びました。そんな気持ちを大切に、人生を送ったのでした。
 今でも、その気持ちは変わらないのです。年齢を重ねるにしたがって、自然との調和が大切であると感じるのです。そして、自然からくる波及効果も大きいのです。鳥が鳴けば、その歌を聞けば、自分の妻に思いをはせ、自分の子供達を気遣ったりするようになったのです。それは鳥という自然を仲介媒介にして、このような家族を思う、関係性を抱くようになるのです。もちろん私だけでなく、多くの人々が持つ、特権のようなものに思えるのです。それだけでなく、蝶を見ると踊りながら、飛んでいるように見えます。山ではシカが跳ね回って、ウサギが遊んでいます。すべてが拍子を、合わせるようにしているのです。また山を見ても高い山もあれば、低い山もあります。そして形の曲線を描きながら、上がったり、下がったり、様々な形態を表現しながら、形作っています。そのような事が理解できるようになったのも、芸術にも、文学にも触れ、年齢を重ねてきたからという事でしょう。
 今日も朝、目を覚まして自然を眺め、その自然がおぼろげながら、私の心と調和して、新たなる、理想の感覚を芽生えさせてくれます。この人間社会を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情を、高めるという事実をよく知っています。今日もテレビのニュースで清原和博の覚せい剤逮捕の事件が、長い時間報道されていました。あれだけ活躍した人が、堕落の道を辿って、価値を卑しめるような存在に落ちて、悲しみを感じざるを得ない状況という事です。今の清原和博に比べたら、草の一株、花の一輪、一本の木のほうが、人々にいい影響を与えてくれます。栄光の人生を送った人物が、卑しい人間に変わってしまう一瞬を見たように思うのです。そのような自然を眺めて、いかに有名な人になっても、ことさら罪を犯してしまった人を見ると、今は自然が素晴らしく感じてしまうのでした。
 そんなニュースを眺めながら、どんな画家が最高に描いた傑作品として描いた花よりも、道端に枯れているような草も、いずれ春には花が咲き、実を結び、種を残すことを思えば、いくら描かれた絵画でも、決して香らないし、種も結ばないのです。そのように、人間が受けた栄光など、何の価値もないという気持ちです。清原和博には、本来の人間としての、生き様をして欲しいという気持ちになります。栄光は確かに最高の傑作作品であった事は間違いないのです。しかし、それは自然に比べたら、比較にならないのです。自分の人生も、虚構にこだわることなく、人として、自然と調和できるような生き方ができれば、それが最高の人生であると思うのでした。改めて、スター選手の堕落を目の前にしてしまいました。