2016年1月31日(八段語録2674)
今年初めての農作業

 もう一月も終わりの晦日を迎えました。久しぶりに根白石の畑に出かけて、ナス・キュウリ・トマトの種をポットに入れて、苗づくりをしてきました。この苗たちは、いずれ私達の食卓に彩を備えてくれるのです。去年の苗づくりは、初めての挑戦でしたが、とてもよくできたと自負してしまいます。種を植えるにしても、そのエネルギーが無限に、秘められているのですから、気持ちを込めて、一粒・一粒の種を投入しました。この種が、苗となって、大地で育ち、私達に多くの贈り物をしてくれるのですから、種を蒔く気持ちは、いい加減にはできないのです。去年、苗を作って、作物を美味しく頂いたものですから、喜びは天にも舞うような気持ちになったのでした。友人の三人で、種を蒔いたのですが、快活な話をしながら蒔いていました。その時も、種に向かって、大きく育ってくれと願いを込めながら、説教しているのです。大人げないと思いながら、見えない収穫の時に向かって、話しかけていたという事です。誰が読んでもバカげた話のように感じると思うのですが、本人は至ってまじめに対応しているのです
 もう二十数年も根白石の畑を耕してきたのですが、多くの瞑想をこの畑で行ってきました。自然との対話が、大きな決断に至ったこともあるのです。この畑も、道場であり、野菜たちは、私の心の育成のための、教材になっているように思うのです。当然、栄養になったのです。畑を耕してみて、いたずらに遊び半分で作っているという、気持ちにはならないのです。誠実に真心を込めて、いずれ食卓にのぼるという事を前提に対応しているという事です。畑は、散策にはとてもいいのです。野菜や花を眺め、鳥の渡るのを見て、風が吹き、水が流れるのです。本当に畑で感嘆することが多いのです。畑にいる事で、内面の私自身も良くなるように思います。畑と自分の内面が共鳴して、連帯的な喜びを感じることができるのです。そのようにしてこそ、充実した農作業ができるのだと思うのでした。
 ところで、このような環境を与えてくれた親父に感謝です。この畑と縁を持たせてくれたのです。親父がこの畑と結ぶことの架け橋になってくれているのです。多くの事を学びました。私の個体も百兆ほどになる細胞で結ばれている生命体です。そして、その細胞を維持させてくれているのが、この大地であり、大いなる自然なのです。そうすると、私自身瞑想をする事で、一枚の木の葉が揺れるのを見て、何かを感じるような詩人にもなれそうです。  
このような大地で、我知らずに繰り広げられている自然の動きは、小さな土、一粒であっても、無窮無尽の自然の調和が入っているということなのでしょう。この大地の恵みに、自分自身が溶け込んでしまうような、悟りを開いた道人のようにも思うときもあるのです。このように思うと、自然は博物館のような気がします。疲れ切った心に、新しい命の息吹を入れてくれるのも、自然のような気がします。
いつしか日が暮れて、冬の寒さが戻っていました。温室ではなく、寒い空気に包まれたビニールハウスになっていました。種を蒔いたポットに段ボールに覆って、発芽する間、暗くして、見守ろうとするのです。天候に恵まれた、農作業の休日になりました。外は雪で覆われていますが、生命の躍動を始めようとする種がここにはあるのです。