2016年1月20日(八段語録2663)
妻には感謝・感謝

 夫婦の絆は、持てば持つほど、嬉しく、夫婦を続けているのですが、手放したくないというのが本音です。しかし、私が生まれてきた動機や過程、そして臨終は、私自身の努力によって、この根源的な事は支配できません。しかしながら、夫婦の絆を大切にしていくという愛情は、妻を大切にしようと思う心を持つ限り、夫婦の支配下に置けるのです。その夫婦の絆の中は、平和と安らぎと平等を、成すことのできる力があります。もし、夫婦の絆に割って入ってくる男がいるならば、私の拳でひねりつぶされるし、存在することはでき程の事態になる事は目に見えています。それだけに、妻が周りをうろうろしながら、掃除
洗濯、台所に立って料理している状況は、私の顔に花が咲くのです。夫婦という公式性は帯びているのでしょうが無形の秩序、根源のような愛情、これは、夫婦の共同財産であり、夫婦の意志と力の象徴という事にもなります。四十年近く培ってきた夫婦の絆は、素晴らしい価値を持っています。一家の先頭に夫婦が立っているように思うのです。
 妻の千順さんは何の変哲もなく共にいるのですが、ただ、ただ嬉しいという言事だけなのです。共に住んで、共に見て、共に話して、共に感じて、共に聞いて、という事だけなのですが、ただ、ただ嬉しいだけなのです。若き日に、出会った時の事を思い起こすと、目と目が合っただけで、胸キューンとして、何かひっくり返るような気がしたものです。また千順さんがにっこり笑う表情をするだけでも、心がウキウキしたものです。私の愛する千順さんは、私が占領しようと思うので、一言言葉を私が発しようとしても、愛情が滲むようになるのです。まあ表現しているのは「のろけ」という事でしょうが、それでも、ほれ方は半端ではなかったという事です。
 今まで、一緒に、色々な事に取り組んできましたが、私に力をみなぎらせてくれたのは、妻の千順さんに他ならないのです。一人では到底できないであろうという歩みも超えてくることができました。これは、政治権力・知識・お金でもなかったという事です。色々と辛い事もありましたが、私達の人生の中で、愛情の交響曲を表現してくれたように思うのです。そこに詩が詠まれ、文学作品が出てくるようです。愛情の息遣い、愛の手、愛の歌声、愛の言葉と広がっていくように思うのです。やはり、今日も一日いろいろな事があっても、妻のもとへ帰って行こうとする自分が居ます。子供達は独立したいという気持ちが強くなっているようですが、私は家に帰りたいのです。そのように帰ろうとする衝動、動作は、もう夫婦の絆の支配下に置かれていると言っても過言ではないのです。
 夫婦として生きてきた人生は、生産的な結実をもたらした人生であり、夫婦として、過ごせなければ、消耗戦であったのでないかと思うのでした。お互い顔を見れば、お爺ちゃんとお婆ちゃんになっているのですが、それでも気持ちは変わらないし、不変不滅であるという気持ちになります。何を失っても夫婦の絆は奪われたくないという思いになります。それだけに、お互いに健康に気をつけながら、日々生活するという事でしょう。今は最高に自然な雰囲気の中で生きているという気がします。結婚した人が、この人で良かったと本当に思うのです。道場と関係なかったと思うのでしたが、夫婦が定着地の「のろけ」でした。