2016年1月17日(八段語録2660)
「稽古始」を振り返って

 「稽古始」のスタートを切ったからには、私も全精神を集中させて、今年に向かっていきたいという気持ちになりました。太陽の光が、山や川が、語りかけてきているような気持ちになります。トレーニングも欠かすことなく継続しているので、ちょっと疲れが出始めていますが、それでも、「前進」という気持ちです。肉体の辛さが心と闘っている時、もっと心の方に自分の耳を傾けなければならないと、思うのですが、良心の声と、肉体の限界が、自分に降り注いで、どちらかといえば、中途で挫けそうになります。そんな中でも、黙想しながら、精神を集中して、風の音、音楽の響き、小鳥がさえずる音を聞くと、何か素晴らしいことがありそうにも思うのです。それが自分を気分転換させてくれることになります。
 それでも、今年の初めのイベントともいうべき事柄が、昨日の「稽古始」でした。指導者も、道場生も心を合わせて、一年の出発ができたのではないかと思うのです。振り返って、写真やビデオの映像をのぞき込んでも、子供達の清々しい笑顔が印象として残っているのです。こうした記録を見るたびに、道場生がどれほど恵まれているのかと思ってしまいます。また再び写真やビデオを眺めて、神秘的で、何かほのぼのとする気持ちになります。子供達が未来に向かっていく姿は、平和と愛情の境地に入るような気がします。多くの道場生と出会い、そしてその姿を見るたびに、責任の重さを実感するのです。そして、子供達の声が、私の耳を開きって、鋭く、神経を高ぶらせるのです。
 道場生の様子をくまなく、稽古では覗き込みました。ある方角を歩きながら、無意識に方向を変えて、道場生を見つめると、そこには一生懸命な表情がにじみ出ているのです。この道場生の未来の事を考えると、自然にお辞儀をしてしまうのです。このような道場生の姿を、道場を立ち上げた時から、出会いたいと思っていたことであるし、幻が現実になっているという驚きを隠せないのです。このような道場生の表情が世界平和のカギになるようにも思えるのです。このような「初稽古」が催された後には、道場生にとって、善いこともあれば、必ず誘惑もあります。稽古ですから、ケガをしたり、気持ちが乗らなかったり、様々であると思うのです。それでも、今日の日の「初稽古」を忘れずに、目をしっかり見開いて、一点を突破して、新しい自分を創造してくださるように、願うのみなのです。苦しい事、つらい事、稽古ではいろいろありますが、それを乗り越えるためにも、指導者の先生にしっかりと教えを受けて、自分に嘘のない生き方をして欲しいと思ったのでした。
私の心がどんなに変わっても、自然は変わらないのです。本当の自分を見出すのが、極真空手の修業ですから、間違いなく、道場を去らずに歩み切れば、本当の自分が見えてくると思うのです。極真空手の修業では、今まで自分が歩んでいなかった、未知との遭遇が待っているのです。闇の中でも、苦労を重ねれば、普通の人とは比べることができないほどの、達成感を感じられるはずです。その困難が嫌だというならば、誰も止めません。そのような道場生は、好きにすればいいのであって、そういう人は、出ていけばいいだけの話です。確かに、いろいろな道場に流れていった道場生もいました。それでも、いずれは、帰ってくると思っているのです。