2016年1月14日(八段語録2657)
師範が師範たるために

 師範が師範たるために指導員に考えて欲しいことがあります。指導員が本気で支えなければ、師範は、裸の王様ということです。つまり、師範は、指導員が、命がけに支えてくれなければ、師範は、命がけに道場生を育てる闘いができないということです。道場生の立場は、守られる立場であり、教育されていくという立場ですから、受け身の存在です。しかし、いったん指導員になると、そうはいかないのです。そこに犠牲と奉仕という、心が伴わなければ、指導員にはなれないのです。どれだけ宮城県本部に貢献して、師範を支えるかという事になるわけです。
つまり、人生の成長過程に似ています。つまり子供から青年に至るまでは、自分の成長と夢を追っていきます。しかし、夫なり妻になると、自分の事ばかり考えることができないのです。子供の為に心身を投入するのです。自分達の事を先に済ませて、対応するのです。考えて欲しいのは、夫婦になるために、ただ夫婦になった訳ではないのです。子供を育てるだけの資質を磨くのです。人生の歩みが、夫婦として結実するということです。もう少し、分析するならば、夫となるためには、妻になるべき人を、迎え入れなければならないということです。そのことはとりもなおさず、男として、しっかりしなければ、子供の事を育てる事はできないのです。その難しさが、子供の虐待に表れて、死亡させるなどして、マスコミを賑わしているということです。
ところで、あらゆる修行に打ち勝って、乗り越えてきたのが三人の師範なのです。そして、現状を維持し、発展させているということです。師範はいい加減な人ではないのです。宮城県本部には三人の師範がいますが、各々人知れず、孤独と闘ってきたのです。そして、師範を支える指導員が現れなければ、師範にはなれないのです。ただ単に、支える指導員が現れるでしょうか。それはあり得ないのです。自分の修行を極め、そして指導員を生命がけに育てたという実績がなければ、師範として立つことができないのです。三人の師範は、厳しい道を歩んできたということです。
当然、指導員にも注文をつけなければならないということです。道場を蔑ろにして、宴のひと時を持つという事、そして、レベルの低い連中と戯れるとするならば、指導員に支えられた師範は、立場を失うことになります。それは、指導員の方向性が問題になるのです。かつて、山形で指導員が師範の心を汲まずに、未成年の女の道場生をホテルに誘って、個人レッスンをしたのでした。いつしか、両親に知れることになり、当然婦女暴行という事で、逮捕されたのでした。指導員は、道場関連の人と対応するときは、あくまでも極真の看板を背負っているという事を自覚すべきです。道場関連の人との交際は、どんなに言い訳しても、極真の看板が前提になるのです。
 師範は、保護司としての仕事をしています。決して保護観察対象者と宴会は持ちません。それは立場をわきまえているからということです。確かに裏社会の組長に誘われた事はありました。きっぱり断ります。保護司のメンツが立たないのです。当たり前の事が、済し崩されて、犯罪に至るケースもあることに注意すべきであるということです。師範は努力しているのです。それに報いるために、指導員は、自覚して振舞ってくださるようにお願いします。