2016年1月12日(八段語録2655)
道場生は受け身であってはいけない

 道場生は、師範を何と見ているのでしょうか。今の教育体制での教師とは違います。まして、義務教育ではないのです。入門することも自由であるし、退会することも可能です。しかし、師範という立場は、しっかりとした指針を持った立場なのです。それゆえに、道場生をはじめ、ご両親には、極真空手に関しては、委ねてもらうべき立場であるという事です。極真会館宮城県本部では、ご両親の見学も可能です。一緒に参加して貰っているのです。今まで、四十数年培ってきた、極真モデルを中心に指導しているのです。その指導理念でもって対応しているのです。そこで、一体、師範という存在は、何故必要なのでしょうか。道場生やご両親が求めるような「人」となりを成し遂げようとして教育するのです。その教育が成り立つのは、道場生はもちろんの事、ご両親に関しても、道場に対して、心の通うような愛情の一致を求めるのです。そして、理想として、すべてが一つになり、すべてが確実になり、すべてが完全な人格を作って出発しようとするのが極真会館宮城県本部の方針なのです。
 さて、私の場合は、大山総裁を捕まえて、入門したのですから、極真一世という事です。その立場から考えれば、道場生は極真二世という事です。私にとって必要な人が、当時は総裁という事でした。それ故、極真の修行をしていく上で、すべての環境を断ち切って、道場に通い詰めたものです。表現すれば、家を捨ててまで極真の修行をしてきたことになります。両親から大学も蹴飛ばして、喧嘩空手の道を行くという事で、勘当を言い渡されたものです。それでも、この道に魅力がありました。そんなわけですから、意地でも家の敷居を跨ぐという事は、あり得ないという気持ちだったように思います。そのような気持ちにならなければ、空手人生を切り開くという事は、できなかったかもしれません。このような私の決断は、人生で前にも後にも無かったぐらいの気持ちでした。若かったゆえに、生き方を二つ持つという事はできず、一つの軸に絞った歩みという事でした。無我夢中に修行に勤しんだ日々を懐かしく思うのです。
 ところで、今日は何を訴えようとしているかというならば、道場生本人が、必要性を持って、極真空手に取り組むことを願うのです。そうすることによって、生き方に対する姿勢が違ってきます。若かりし頃の私は、将来このように極真会館宮城県本部の指導者になるという事など、考えてもいませんでした。極真空手を定着させ、地元に根付かせてきたのです。稽古の中から、私がやるべき使命を悟るようになったし、それを大きく育んだのです。そんな私の経験からして、道場生に訴えたいことは、必ず道は開けるという事です。そして、やるべきミッションを誰もが持っているという事です。極真精神を持って、あらゆることにチャレンジすることは、頼もしい事です。そして、私がそうであったように、必ず道を切り開ける精神を身にまとう事ができるという事です。
 そんな気持ちを道場生やご両親に送るメッセージにしたのです。私としても、今日から新規作戦を繰り広げるのです。かっこよくないのですが、それでも誰が見てようが、見ていまいが、誠実に実行するのみです。それが、今私がやるべき事であると思っているのです。